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慈信坊がやうやうに申し候ふ [親鸞の手紙を読む(その104)]

(2)慈信坊がやうやうに申し候ふ

 日付として正月九日としかありませんが、他の手紙との関係から判断して建長八年の正月九日であることは間違いないでしょう。前回読みました第10通、念仏人々御中あての手紙が建長七年九月二日で、そこでは善鸞のことはひと言も触れられていませんでしたが、その後、善鸞に対する疑惑が急速に膨らんでいき、同年十一月九日付け慈信房・善鸞宛ての手紙(『親鸞聖人御消息集』第11通)では、その疑惑を本人に直接ぶつけています。「あなたが東国に下られ、『わたしが聞いてきた教えこそまことであり、みんなの日頃の念仏はみな無意味である』などと言われたことで、大部の中太郎のもとにいた人たち九十何人かが、みな中太郎をすててあなたのもとに走ったそうですが、どうしてそんなことになるのでしょうか」というように。
 そしてこの手紙が翌建長八年の正月九日に書かれたのですが、ここではもう善鸞が混乱の元凶であることがはっきり認識されています、「慈信坊がやうやうに申し候ふなるによりて、ひとびとも御こころどものやうやうにならせたまひ候ふよし、うけたまはり候ふ。かへすがへす不便のことに候ふ」などと。そしてついにその年の五月二十九日付けで善鸞に宛て義絶を宣告する書状が書かれることになります。こうして善鸞を廻る一連の騒動はようやく終息するのですが、この騒動のなかで多くの人たちが「鎌倉にての御うたへ」に巻き込まれ、「ところせき(心苦しい)」思いをしなければならなかったようです。第8回に読みました第7通の性信房がそうでしたが、この手紙が宛てられている真浄房もそのひとりですし、さらには文中に出てくる入信房も鎌倉にとどめられて苦労したようです。
 さてこの手紙ではさまざまなことが述べられていますが、整理しますと次の三点になります。第一に、念仏が妨げられ迫害されることは「この世のならひ」であり、「かねて仏のときおかせたまひて候へば、おどろきおぼしめすべからず」ということで、これはすでに第9通で詳しく説かれていました。次に、そのように念仏が止められるというのも「そのところの縁つきておはしまし候ふ」ということですから、「いづれのところにてもうつらせたまひ候ふておはしますやうに御はからひ候ふべし」と言います。そして、そのこととも関わって第三に、「餘のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ」ということです。

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