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微塵世界にみちみちたまへり [『末燈鈔』を読む(その51)]

(12)微塵世界にみちみちたまへり

 どうして第17願が、信心をよろこぶ人は「如来とひとしい」ことの証拠となるのかを考えているところです。
 諸仏の「なむあみだぶつ」の声がわれらの心に届き、それがおのずとわれらの口から漏れ出ていき、それがまた誰かの心に届き…、かくして世界中に「なむあみだぶつ」の声が響きわたることになる。ということは、「なむあみだぶつ」の声が届いて、それをよろこぶ人、つまり信心をえた人は、「諸仏とひとしい」ことにならないでしょうか。
 親鸞の書くものを読んでいますと、われら凡夫と十方諸仏とがもう渾然一体となって、その境界が溶けていくような思いにさせられることがあります。めくるめくような感じというのでしょうか、何か不思議な思いに誘いこまれるのです。たとえば『唯信鈔文意』のなかの一節。
 「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。」
 仏と凡夫はもちろん別です。それを同じなどと言えば大変です。でも仏はこの微塵世界にみちみちたまへるのです。この微塵世界にみちみちているのは紛れもなくわれら生きとし生けるものどもですが、そこに仏たちもみちみちたまへる。としますと、もう生きとし生けるものども(群生)の海はそのまま仏たちの海ではないでしょうか。
 「おたまじゃくしは蛙の子」をもう一度持ち出しますと、おたまじゃくし(凡夫)は「いまだ」蛙(仏)ではありませんが、しかし「もうすでに」蛙でもあるのです。


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