SSブログ
『ふりむけば他力』(その8) ブログトップ

自力であり、かつ他力 [『ふりむけば他力』(その8)]

(3)自力であり、かつ他力

 日常語の場合は、自力か他力かのいずれかで、自力であれば他力でなく、他力であれば自力ではありません。いくぶんか自力でいくぶんか他力ということはあるでしょうが(いや、それが普通でしょう)、しかし自力であるところでは他力ではありませんし、他力であるところでは自力ではありません。ところが仏教語の場合、自力か、さもなければ他力という関係にはなっていません。こちらに自力があり、あちらに他力があるという具合に分かれているのではなく、何ごとも「わたし」がそうしようとはからっているという意味では自力であり、しかし「わたし」がそうしようとはからっていることも、実は本願力のはからいの上であるという意味ではみな他力です。「自力か、さもなければ他力」ではなく、すべて「自力であり、かつ他力」という関係になっています。
 ここで思い出すのが「中動態」の話です。少し前になりますが国分功一郎氏の『中動態の世界』という実におもしろい本を読みました。インド・ヨーロッパ語族の言語において、動詞の態(voice)が「能動態(active voice)と受動態(passive voice)」という対になるより前に「能動態と中動態(middle voice)」という対があったというのです。もともと「能動態と中動態」であったのが、いつのまにか「能動態と受動態」に変化していったということです。「能動vs受動」は「するvsされる」で、これはもうわれらの身体に馴染んでおり、何ごとも「する」か、さもなければ「される」に決まっていると思い込んでいますが、実は「する」でもなく「される」でもない、あるいは「する」でもあり「される」でもあることをあらわす中動態があったことを教えてもらい、目からうろこが落ちる思いをしました。
 国分氏が上げている例に「好きになる(惚れる)」があります。これは「能動vs受動」でいいますと能動ですが、しかしわれらは誰かを好きになろうとして好きになれるものではないでしょう。これはもちろん受動ではありませんが、だからと言って能動でもなく、何だかしらないが気がついたら好きになっていたということです。英語の“fall in love”という言い回しはそのあたりの消息をうまく伝えてくれますが、このように能動でもなく受動でもない、あるいは能動であり、かつ受動でもあるのが中動です。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その8) ブログトップ