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死刑ということ [はじめての『尊号真像銘文』(その73)]

(4)死刑ということ

 阿弥陀仏を讃えるその裏には懺悔があるということ、ここにじっと意を潜めてみたいと思います。機の深信と法の深信は一枚の紙の表と裏の関係ですから、一方がなければ他方もありません。そこでまず「機の深信がなければ法の深信もない」ということから考えてみましょう。弥陀の本願は「一人の例外もなく」すべての衆生を救ってくれると信じるのが法の深信ですが、さて腹の底からそう思えるか。
 講座の人たちとコーヒーを飲みながら雑談を交わしている中で死刑制度が話題となりました。真宗大谷派(東本願寺)が死刑制度に反対の立場を取り、死刑執行がある度に抗議声明を出しているが、このことに敬意を表したいとぼくが言ったとき、すかさず疑問の声が上がりました。少し前になりますが、ベトナム国籍の幼い女の子が通学途中に連れ去られ、無惨な死体となって発見された事件がありましたが、ある方がそれを取り上げ、「ぼくにも同じ年頃の孫がいますが、もしその子に同じようなことが起ったらと思うと、こころがざわつきます」と言われたのです。
 日本人の大半が死刑制度に賛成している最大のわけは被害者遺族の報復感情に対する共感です。自分がもしその立場になったら、犯人がのうのうと生きていることに耐えられないという思い。何かの本で読んだ「犯人と同じ空気を吸っていることがたまらない」という遺族のことばが頭にこびりついています。このような感覚があれば、弥陀の本願は一人の例外もなくあらゆる衆生を救ってくれるということばは虚ろに聞こえるに違いありません。あの犯人も弥陀の本願によって救われるなら、自分はもうその救いに与らなくても結構、となるのではないでしょうか。
 親鸞は「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』第5章)と言いますが、被害者遺族の報復感情においては「あの犯人と父母兄弟だなんてとんでもない」となります。「あいつは鬼か蛇であり、われらと同じ世界に棲むものではない」という断絶の意識のなかにあるに違いありません。「みなもて世々生々の父母兄弟」か、それとも「あいつは鬼か蛇か」、ここに問題の核心があります。

タグ:親鸞を読む
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