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一心とは [『教行信証』「信巻」を読む(その149)]

(8)一心とは

天親の「一心に」とは「脇目もふらずに」ということではなく、「ほとけの心」と「わたしの心」が「一つになっている」ということです。われらが「ほとけの心」(本願)を信じるというとき、こちらに「わたしの心」があり、あちらに「ほとけの心」があるのではなく、「ほとけの心」が「わたしの心」にやってきて、それが「わたしの信心」となるということです。だからこそその信心は「疑蓋まじはることなし」であるということ、これが「一心」の意味です。

この「ほとけの心」と「わたしの心」が「一つ」であるというのはどういうことかをあらためて考えておきたいと思います。

そもそも「ほとけのいのち」とは何かといいますと、「わたしのいのち」を離れてどこかに「ほとけのいのち」なる実体が存在するわけではなく、無数の「わたしのいのち」たちが縦横無尽につながりあっている、そのつながり(これが縁です)の総体が「ほとけのいのち」です。ですから「わたしのいのち」たちはみな「ほとけのいのち」のなかに包摂されていると言うことができますが、しかし「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」のすべてを包み込む大きな袋のようなものではなく、個々の「わたしのいのち」たちを縦横無尽につないでいる力とでも言うべきものです。ちょうど万有引力がすべての天体をつないでいる力であるように、「ほとけのいのち」はあらゆる「わたしのいのち」をつないでいる力のようなものです。

「わたしのいのち」たちはみな「ほとけのいのち」によって縦横無尽につながれることで生かされているのです。

前にも参照したことがありますが、いま述べたことを表す如何にも親鸞らしいことばがあります。「仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」(『唯信鈔文意』)というものです。まず「仏性すなはち如来なり」と言われるのが「ほとけのいのち」のことです。そして「微塵世界にみちみちたまへり」とは「ほとけのいのち」はこの世界とは別のどこかにあるのではなく、この世界のただなかに遍在しているということです。


タグ:親鸞を読む
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