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すでに如来から [「親鸞とともに」その95]

(9)すでに如来から

願生と得生にもどりますと、「われら」が往生を願う以上、まず願生があり、しかるのちに得生があるのであり(異時因果であり)、願生があるところ、すでに得生がある(同時因果である)などということはありえません。としますと、「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得」という本願成就文に意味があるとしますと(親鸞はこの文にこそ浄土の教えの眼目があるとするのですが)、「われら」が往生を願うという前提が否定されていると考えるしかありません。いや、「われら」が往生を願うには違いないのですが、それが第一起点となっているのではないということです。そのことが先ほどの「至心に回向したまへり」という読みに関係してきます(6)。

これを「(われらが)至心に回向して」と普通に読みますと、「われら」が一生懸命努力して往生を願うということですが、親鸞のように「(如来が)至心に回向したまへり」と読みますと、それは「如来」がわれらの往生を願ってくださっているということになります。つまり「われら」が往生を願うよりも前に、「如来」がわれらの往生を願ってくださっているということです。そして「われら」が往生を願うときには、すでに「如来」がわれらの往生を願い、その手筈を整えてくださっているのですから、そのとき「すなはち往生を得(即得往生)」と言えることになります。

このように見てきますと、「われら」が往生を願うと言うとき、そこには二つの意味があることが分かります。一つは「われら」が第一起点となって往生を願うということで、もう一つは「われら」が往生を願うより前に「如来」がそれを願ってくださっていることです。前者は自力で往生を願うのですが、後者はそこに如来の他力(本願力)がはたらいていることに気づいています。以前、「おかえり」と「ただいま」についてお話したことがありますが、すでに「おかえり」の「こえ」が聞こえているから、「ただいま」と元気よく家に帰ることができるように、如来から「いつでも帰っておいで」と願われているから、「はい、ただいま」と応答することができ、そしてそのときにはもうすでに帰っているのです。


タグ:親鸞を読む
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