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宿業と他力 [はじめての『高僧和讃』(その60)]

(3)宿業と他力

 宿業と他力とは、一見、何の関係もないような顔つきをしていますが、宿業の気づきと他力の気づきは実は同じことです。
 ぼくらは自分の人生は自分で切り拓いてきたし、これからも切り拓いていくものと思っています。そこにはなんら胡散臭いものはなく、むしろそう思うことにこそ人間としての尊さがあると言えます。この世に生まれてきたのは自分の意思とは言えないものの、ものごころついてからは自分でこうと思う道を歩んできたし、もちろん数えきれないほどの人たちの力添えがあるからには違いありませんが、これからも自分でよしと思う道を歩んでいきたいと思う。これが人間としてあるべき姿でしょう。それはその通りなのですが、でも、自分でこうと思うこと、自分でよしと思うことも含めて、みな宿業のなせるわざと感じるときがあります。
 それが「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへなり」という思いで、これは自分でそう思おうとして思えるものではなく、あるときふとそう思わざるをえなくなるのです。一方では「わたしのいのち」を生きています。これはもう紛れもないことで、「わたしのいのち」を、たとえどんなに絶大な権力をもてる帝王といえども勝手に左右することはできません。でも、それと同時に「ほとけのいのち」を生きていると感じることがあるのです。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると。
 「わたしのいのち」という紙の裏側は「ほとけのいのち」であるということ、「わたしのいのち」をペラッと裏返すとそれは「ほとけのいのち」であるということ、これが宿業の気づきであり、他力の気づきです。ぼくらは「わたしのいのち」を自分でデザインしていると思うのですが、そしてそれはまったくその通りですが、でもそれは「ほとけのいのち」としてもうとうのむかしにそのようにデザインされているということ。信心も念仏も同じです。ぼくらは自分で信心し念仏するのです。それは紛れもないことですが、でもそれはみな弥陀から回向されたものなのです。

タグ:親鸞を読む
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