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すなはち往生を得 [『教行信証』「信巻」を読む(その30)]

(10)すなはち往生を得


さて第十八願成就文で一番の問題である「即得往生」について考えなければなりません。「至心に回向せしめたまへり」のあと、「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん」とありますが、この「すなはち往生を得」をどう理解すればいいのかという問題です。「かの国に生ぜんと願ずる」のは「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念」するときですが、そのとき「すなはち」往生するというのはどういうことか。ことは「往生する」とは何かということに関わります。往生とはもちろん浄土へ往くことですから、浄土とは何かということです。


『大経』には浄土について「ここを去ること十万億刹なり」と説かれていますが、これを文字通りに受けとりますと、この娑婆から遠く離れたところにもう一つの世界(アナザーワールド)があるということです。さてそのように、こちらに娑婆があり、あちらに浄土があって、こちらからあちらに往くことが往生することであるとしますと、この「すなはち」は何かということなります。ここで解釈が二通りに分かれます。一つは、娑婆とは別に浄土という世界があるという前提のもとで、この「すなはち」は往生そのものではなく、往生することが定まることであるとします。往生そのものはいのち終わるときになるが、往生することが定まるのは信心歓喜したそのときであるというのです。「すなはち往生を得」につづいて「不退転に住せん」とありますが、この「不退転」とは往生することから退転しないという意味だとするのです。


もう一つは、こちらに娑婆が、あちらに浄土がという二世界説を採りません。『大経』の「ここを去ること云々」というのはあくまでも物語としての説き方であり、浄土のありようは娑婆のありようから超絶していることを示すためにそのような説き方をしていると見るのです。そもそも娑婆といい浄土というのも世界そのものを指しているのではなく、われらが世界をどのように意識するかという世界意識のことであるとします。娑婆という世界と浄土という世界の二つの世界があるのではなく、娑婆という世界意識と浄土という世界意識があるということです。



タグ:親鸞を読む
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