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機の深信と法の深信 [「『正信偈』ふたたび」その104]

(6)機の深信と法の深信

機の深信と法の深信はコインの表と裏のような関係ですから、どちらが先でどちらが後ということはありませんが、しかし実際にわれらの身に起こるときには、まず機の深信、そして法の深信という順序になります。善導もその順で説いていますが、ここにはどのような心の動きが潜んでいるのでしょうか。これを考えるためには、あらためて「信心とは何か」というすべての原点に立ち返らなければなりません。いま深信が「身に起こる」と言いましたが、ここに信心の核心があると言えます。すなわち信心はわれら「に」起こりますが、われら「が」起こすことはできないということです。

普通にわれらが何かを「信じる」と言うときは、われらがその信を起こしています。われらが何かに対して信を与えています。ところが浄土の教えにおいて本願を「信じる」というときは、同じ「信じる」ということばをつかいながら、まったく違う事態を指しています。すなわちわれらが本願の信を起こしているのではなく、本願がわれらに信を起こしているのです。あるいは、われらが本願に信を与えているのではなく、われらは本願から信を与えられているのです。本願の信は、われらが与えるものではなく、われらは本願の信を与えられるということです。これが賜りたる信心ということです。

機の深信と法の深信に戻りますと、どちらも如来の智慧をわれらが賜るのですから、どちらが先でもいいようなものですが、賜るわれらから言いますと、まず機の深信、次いで法の深信という順序でなければ心にストンを落ちてくれません。まず「汝のような罪悪深重の凡夫は出離の縁がない」と宣告され、そのことばの真実性の前に否応なくうな垂れているとき(これが機の深信です)、「そのような汝をわが本願は必ず救う」と告げられますと、そのことばは干天の慈雨のようにわれらの心に沁みこみます(これが法の深信です)。それが、いきなり「汝をわが本願は必ず救う」と告げられても、「いったい何だろう」と戸惑いを与えるだけに終わらないでしょうか。そのあとで「汝のような罪悪深重の凡夫は救われる道理がない」と言われますと、これまた素直に受けとめられないのではないかと思えます。

われらはみなおしなべて極重悪人であるという自覚が、本願他力による救いの入り口にあるということです。


タグ:親鸞を読む
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