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大悲の弘誓を慿(たの)む [「信巻を読む(2)」その133]

(10)大悲の弘誓を憑(たの)む

これまで『涅槃経』から長く引用されてきたことがらが、ここで短く端的にまとめられます。

ここをもつていま大聖(釈尊)の真説によるに、難化(なんげ)の三機、難治の三病(誹謗正法と五逆と一闡提)は、大悲の弘誓を憑(たの)み、利他の信海(他力回向の信心)に帰すれば、これを矜哀(こうあい、こころから哀れむ)して治す、これを憐憫(れんびん)して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世(じょくせ)の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。

引用の最初のところで、難化の三機は「声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず」と言われ、その治療には「瞻病随意の医薬」が不可欠と言われていましたが、それがここで「大悲の弘誓を憑む」ことであり「利他の信海に帰す」ことであるとはっきり述べられます。その意味するところをあらためて明らかにしておきたいと思います。

まず「弘誓を憑む」という表現に注目しましょう。親鸞は「頼む」とは言わず、「憑む」と表現するのですが、ここにはどのような意図があるのでしょう。「頼む」と言うときは、どうしても「わたし」が顔を出し、こちらにいる「わたし」が、あちらにある「弘誓」の力を借りるというニュアンスになります。しかし「憑む」と言う場合は、むしろ逆に「弘誓」の力(本願力)がこちらに「憑(つ)き」、不思議なはたらきを及ぼすという意味が生まれてきます。弘誓はわれらがその力を借りるのではなく、むしろ弘誓がわれらに憑き、われらを動かす力となるということです。われらが弘誓の力をゲットするのではありません、逆に、弘誓の力がわれらをゲットするのです。

ではわれらは何をするのかと言いますと、それが次の「利他の信海に帰す」ということばで言い表されます。この「利他」は「他力」の意味で(曇鸞は「利他」とは如来の本願力であることを明らかにしてくれました)、「利他の信海」とは「如来から回向された(賜った)信心」のことです。そしてそれはむこうからやってくる弘誓の力に「気づく」ことに他なりません。弘誓とその信心(気づき)が「醍醐の妙薬」として「一切の病を療する」のです。


タグ:親鸞を読む
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