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心を至し信楽して [「『正信偈』ふたたび」その4]

(4)心を至し信楽して

では「至心信楽の願」をどう読むべきでしょうか。まず、この願を含む四十八願がどのような状況において誓われているかを見なければなりません。『大経』によりますと、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行していたとき、生死勤苦(ごんく)の衆生を漏れなく救うための浄土を建立せんとして、二百十億の諸仏の浄土を参考にしてこの上ない殊勝の願をたてられ、世自在王仏に「やや、聴察を垂れたまへ。わが所願のごとくまさにつぶさに説くべし」と述べるのです。すなわちこれらの願は「われら」に向かって誓われているのではなく、「世自在王仏」に「わたしが五劫思惟してたてた願はこのようなものです」と開陳しているのです。

そしてそれぞれの願はみな「たとひわれ仏を得たらんに」ではじまり、「正覚を取らじ」で終わるという形になっています。たとえば第一願は「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」というもので、これは法蔵菩薩が世自在王仏に向かい、「わたしが仏になるときには、かならずわが国に地獄・餓鬼・畜生がないようにしたい、そうでなければわたしは仏になりません」と誓っているのです。それを頭において、もう一度「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじ」を読んでみましょう。そうしますと、これはわれらに対して、「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」しなさい、そうすればかならず往生させましょうと言っているのではないことが明らかです。

ではどう言っているのかといいますと、世自在王仏に向かって「わたしが仏となるときには、十方の衆生が、心から信じてわが国に生まれようと思って十回でも念仏するようになり、そして往生できるようにしたいと思います。もしそれができないようでしたら、わたしは正覚を取りません」と言っているのです。すなわち「信」も「行」もそして「証」である往生も如来からわれらに与えられるということです。


タグ:親鸞を読む
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