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みなほとけに [「親鸞とともに」その116]

(10)みなほとけに

あらためて「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係に立ち返りますと、「わたしのいのち」は他の無数の「わたしのいのち」たちと無尽につながりあい、その無尽のつながりの総体が「ほとけのいのち」です。そのようにして「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きており、それはすべての「わたしのいのち」に例外なく言えることです。としますと、どの「わたしのいのち」も、その終わりのときを迎えますと、みな例外なく「ほとけのいのち」そのものに帰っていくことになります。善人か悪人か、あるいは弥陀の本願を信じるか信じないかに関わりなく、みなひとしなみに「ほとけのいのち」に帰っていくのです。

とすれば本願を信じ念仏を申すことにどんな意味があるのかという抗議の声が出ることでしょうが、それにはこう答えることができます。本願を信じ念仏を申しているということは、「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」を生きていることに気づいており、したがって「わたしのいのち」が終わるとき「ほとけのいのち」そのものに帰っていくことに気づいているということです。そしてそれが摂取不捨という救いですから、本願を信じ念仏を申している人は、もうすでに摂取不捨の利益に与り、救われているのです。もし本願(ほとけのいのち)に遇うことがありませんと、「わたしのいのち」が終わることはまったき無に帰することであり、そのことに底知れぬ怖れを懐いて生きていかなければなりません。

いのち終わったのちには、みな例外なく成仏しますが、今生においては、信心の人だけが正定聚の救いに与ることができるということです。念のためですが、正定聚すなわち必ず成仏するべき身であることにも人による分け隔ては一切ありません。ただ正定聚であることに「気づいている」かどうかの違いがあるだけで、その気づき(信心)がありませんと、正定聚でありながら、正定聚としての救いに与ることができないのです。しかし、その気づきがありますと、「もし明日世界が滅びようと、わたしは今日りんごの木を植える」(ルター)と言うことができるのです。

(第11回 死ぬということ 完)


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