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誤謬推理 [『ふりむけば他力』(その72)]

(11)誤謬推理

 カントは感覚器官からもたらされるさまざまなデータを感性の形式や悟性の概念で統合してひとつの明確な像にする機能を統覚といいます。この統覚のはたらきこそわれらの経験が経験として成り立つ最終的な根拠であり、統覚のはたらきがなければ雑多な印象のカオスがあるだけです。われらがものを考えるということは、そこにこの統覚のはたらきがあるということであり、カントはこの統覚のはたらきを乗り物のようなものであると言います。われらの判断はつねにこの統覚という乗り物の上でなされているということです。「これは○○である」という判断は「これは○○である〈とわたしは考える〉」ということであり、すべての判断は「わたしは考える」という乗り物に乗っているのです。
 しかしそこから「考えるわれ」という実体が存在すると推論するとき、密かにあるすり替えがなされているとカントは言うのです。判断の乗り物としての統覚と「考えるわたし」という実体のすり替えです。そもそも「わたしは考える、ゆえにわたしはある」は推論ではなくトートロジー(同語反復)であるとカントは喝破します。「わたしは考える」とはすでに「わたしは考えつつ存在している」ということであり、したがって「わたしは考える、ゆえにわたしはある」とは「わたしは考えつつ存在している、ゆえにわたしはある」と同語反復しているにすぎないと。そして「考えつつ存在するわたし」とは統覚としての「わたし」であり、実体としての「わたし」ではありません。
 こうしてカントは「考えるわたし」という実体があると言うことはできないと結論します。しかしだからといって、それがないと言うこともできません。われらの理性にはその決着をつける権能がないのです。ちょうど先の第一アンチノミーにおいて、世界に果てがあるということもできないし、ないということもできないのと同じです。ここまできましてカント哲学と仏教との親縁性がはっきりしてきます。その親縁性を何よりくっきりと示してくれるのが「マールンクヤ経」とよばれる初期経典です(『中部経典』に入っています)。釈迦の弟子にマールンクヤという哲学青年がいました。釈迦が生きていたインドは時代の転換期にあたり、バラモン教の権威が揺らいで、自由思想家とよばれる人たちがそれぞれ独自の哲学説を繰り広げて百家争鳴の状況でしたが、マールンクヤ青年もその影響を受け、さまざまな哲学的疑問をかかえていました。そしてそれを釈迦に問いかけます。

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