SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その91 ブログトップ

定散と逆悪とを矜哀(こうあい)して [「『正信偈』ふたたび」その91]

(3)定散と逆悪とを矜哀(こうあい)して

第2句「定散と逆悪とを矜哀して」といいますのは、もし仏の正意が定散二善による往生を説くことにあるとしますと、定善も散善もなすことのできない悪人は仏の救いから漏れてしまうことになるということを意味します。ですから仏の真意は定散の善人も下品の悪人も包み込んで「一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむ」ことにあると考えざるをえないということです。ここでは定散と逆悪が並列されていますが、善導の意をもう一歩おしはかって言えば、ひとは所詮みな罪びとであるということがあります。それは彼が師・道綽から受け継いだ「悪を凝視するまなざし」であり、先回ふれました「機の深信」がそれに当たります。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」の「自身」は「人はみな例外なく」ということに他なりません。

一方に定散の人がいて、他方に逆悪の人がいるのは、ただそれぞれの宿縁によるにすぎず、人はみなひとしなみに「罪悪生死の凡夫」であるということ、そしてそれを矜哀して念仏往生の教えがあるということ、ここに善導浄土教の本質があります。第3句「光明・名号、因縁をあらはす」は、そうした「罪悪生死の凡夫」の往生の因縁となるのが弥陀の光明と名号であるということです。この一句は『往生礼讃』の「しかるに弥陀世尊、本(もと)深重の誓願を発(おこ)して、光明・名号をもつて十方を摂化(せっけ)したまふ。ただ信心をもつて求念(ぐねん)すれば、上一形(一生涯)を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得」とあるのによります。

ここであらためて念仏往生の教えとは何かを確認しておきますと、弥陀の本願とは「どんな過去よりもっと過去から」あるところの「本の願い」で、それは「いのち、みな生きらるべし」というものですが、その「ねがい」はただ「ねがい」としてあるだけでは何の力にもなりません。それが一切の「罪悪生死の凡夫」のもとに届けられなければなりませんが、そのはたらきをするのが光明(ひかり)と名号(こえ)です。「ねがい」は「ひかり」と「こえ」となって「罪悪生死の凡夫」のもとに届けられ、それが往生の因縁となるということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その91 ブログトップ