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尽十方無礙光如来 [はじめての『尊号真像銘文』(その60)]

(7)尽十方無碍光如来

 つづいて「尽十方無碍光如来とまふすは、すなわち阿弥陀如来なり」とあります。南無阿弥陀仏の南無が帰命と漢語訳されたように、阿弥陀仏が尽十方無碍光如来と訳されているのです。阿弥陀仏というのは「Amitabha(アミターバ)」で、「無量のひかり」という意味ですから、ここではそれが「尽十方無碍光如来」とされているのです。この「尽十方」について親鸞は「尽はつくすといふ、ことごとくといふ。十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり」と解説してくれます。
 これで思い出されるのが『唯信鈔文意』の一節です。「この如来、微塵世界にみちみちたまへり。…法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまふ御かたちをば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり」。『無量寿経』には因位の法蔵菩薩が不可思議の誓願を起こし、それが成就して阿弥陀仏になられたというように擬人化して説かれていますが、それはあくまで方便であり、阿弥陀仏のもとはといえば「いろもなし、かたちもましまさ」ない「無量のひかり」で、それが「微塵世界にみちみちたまへ」るのだというのです。
 親鸞は「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせんれう(料)なり」と言っていました(『末燈鈔』第5通、いわゆる「自然法爾章」)。「自然のやう」とは「みづから」ではなく「おのづから」であるということ、「こちらから」ではなく「むこうから」であるということですが、阿弥陀仏というのはそれを「しらせんれう」、すなわちそれを表すための方便であるということです。「尽十方無碍光如来(十方世界をつくしてことごとくみちたまへる無量のひかり)」とは、「おのづから」、「むこうから」ということに他なりません。ひかりは「むこうから」さしこみ、「おのづから」われらのこころに沁みこむのですから。

タグ:親鸞を読む
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