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馬に乗っていながら、しかも馬を忘れている [『ふりむけば他力』(その100)]

(9)馬に乗っていながら、しかも馬を忘れている

 それにしても「馬に乗っていながら、しかも馬を忘れている」という表現は言い得て妙です。われらはことばを介して世界とつながっていますから、そのことばの構造(文法)に規定されざるをえませんが、ともするとそのことをすっかり忘れて世界と直に接していると錯覚してしまい、かくして戯論にうつつをぬかすことになります。この龍樹のことばで大事なことは、彼は「馬から降りよ」と言っているのではないということです。生きるということは馬に乗ることですから、馬から降りることは生きることから降りることに他なりません。彼が言うのは「馬に乗っていることを忘れるな」ということです、それを忘れずに馬を上手に乗りこなせ、ということです。
 かなり時間をかけて『中論』の言わんとしていることを見てきましたが、ここで考えなければならないのは、龍樹が言う「馬に乗っていること」、ヴィドゲンシュタイン的に言えば「言語ゲームに参加していること」をわれらはどのようにして自覚することができるか、ということであり、そのことが他力と関わってきます。それを考えるためにあらためて「〈自力〉聖道門」と「〈他力〉浄土門」の違いに目を向けたいと思います。聖道門は仏法を「事実」として語り、浄土門はそれを「物語」として語るということです。そして「事実」として語られた仏法はそれを悟るのが難しく(難行)、「物語」として語られる仏法はそれを信じるのが易しいと言われます(易行)。このことを『中論』の所説と重ねて考えてみようと思います。
 『中論』が言わんとしたことをあらためて平たく言い直しておきますと、われらはことばを介して人々との共同生活を展開していますから(これがヴィドゲンシュタインのいう言語ゲームです)、われらのすべての言動はことばの文法構造(主語・述語構造)に規定されるということです。ところが、われらは言語ゲームに参加しながら、そのことをいつの間にかすっかり忘れてしまい(馬に乗っていながら、しかもそのことを忘れてしまい)、ことばで語られることがらがあたかも実際に存在するかのように思い込んでしまうところがあります。それは、たとえばただの紙切れにすぎないものを約束事として貨幣としているだけなのに、紙幣自体に価値があるかのように思い込んでしまうのと同じことです。龍樹はそこからさまざまな形而上学的議論(戯論)が生まれてくると言います。

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