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信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す [「親鸞とともに」その84]

(8)信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す

このように往生観が180度転換されることにより、浄土のとらえ方もおのずから180度ひっくり返ります。伝統的に浄土はこの娑婆とは別のどこか(「ここを去ること十万億刹」-『無量寿経』)にあり、そこに往くことが往生とされていましたが(したがってそれはおのずから臨終のときになるのですが)、親鸞によりますと、往生は信心の「いまここ」で正定聚不退の位につくことですから、浄土はこの娑婆と別の世界ではありえません。往生は、そのことばから、「どこかへ往くこと」とイメージされるように、浄土もそのことばから、「どこかにある別世界」とイメージされますが、そのイメージがコペルニクス的に転換されるのです。

親鸞が性信房(関東の弟子の中心人物の一人)に宛てて書いた手紙の一節にこうあります、「光明寺の和尚(善導のことです)の『般舟讃』には、〈信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居(こ)す〉と釈したまへり。〈居す〉といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり」と。もとの『般舟讃』には「厭(いと)へばすなはち娑婆永く隔つ、欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居せり」とあるのですが、親鸞はそれを「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と述べているのです。注目されるのは「その心」がつけ加えられていることで、親鸞にとって浄土に往生するのは信心のひとの「心」であるということです。つまり、身は娑婆にいるままで、しかし「その心」は「すでにつねに浄土に居す」ということ、これが往生だというのです。

娑婆という世界と浄土という世界の二つの世界があるのではなく、世界はただひとつ、この娑婆世界があるだけであり、信心をえたとは言え、身はその世界にいるままです。しかし「その心」は「すでにつねに浄土に居す」ということは、信心という心にはそれ特有の大地があるということになります。身に大地が不可欠なように、心にもそれ独自の大地が必要で、それが浄土であるということです。


タグ:親鸞を読む
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