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憶念の心つねにして [『浄土和讃』を読む(その4)]

(4)憶念の心つねにして

 次に問題となるのは「憶念の心つねにして」とはどういうことかという点です。これにはしかし親鸞自身が『唯信鈔文意』において答えてくれています、「憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり」と。もうこれ以上何も言うことはありませんが、ただ「つねにして」にひっかかるかもしれません。
 遇いがたくして本願に遇うことができましたら、こころの中に本願を「おもひいづる」のは確かですが、それが「つね」であるかどうか。本願のことなんかすっかり忘れて、欲のこころから他人を蔑ろにしたり、つまらないことに腹を立てたりするのがわれら凡夫の性ではないでしょうか。
 これについても親鸞は答えを用意してくれています。『一念多念文意』の中でこう言っているのです、「つね(恒)にといふは、たえぬこころなり。おりにしたがふて、ときどきも、ねがへといふなり。いま、つねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを、常といふなり」と。
 親鸞は「恒」と「常」を区別するのです。「恒」は「おりにしたがふて、ときどきも」であり、「常」は「ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬ」ことだと。そしてわれわれにとっての「つね」は「恒」の方であり、「常」は如来にしかありません。「正信偈」に「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したもう)」、あるいは「大悲無倦常照我(大悲、倦きことなく、常に我を照らしたもう)」とありますように、「常」は如来のことです。
 悲しいかな、われら凡愚は本願をすっかり忘れてしまうことがあります。でもだからと言って本願が消えてしまったわけではありません、また「おりにふれて、ときどきも」こころのなかに「おもひいづる」のです。これがわれらの「つね」であり「たえぬ」ということです。


タグ:親鸞を読む
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