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物語ということ [『ふりむけば他力』(その102)]

(11)物語ということ

 われらは「わたし」を主人公とするひとつの物語の世界を生きているのです。それがわれらにとって唯一の世界であり、それとは別にどこかに真実の世界があるわけではありません。ところがどうかすると、「一切は空である」という表現から、この虚構(フィクション)の世界とは別に真実の世界があるかのように思い、虚構の世界を脱して真実の世界に入らなければならないという顚倒した考えに囚われてしまうのです。ここに聖道門の困難があります。
 さて浄土門は「弥陀の本願」を説きます。それは、われらの日常の生活はわれら自身のはからいによって成り立っているかのように思い込んでいるが、実はそのように思うことも含めてすべて弥陀の本願(はからい)に支えられているのであると説きます。われらは自分の力で生きているように思っているが、実は弥陀の本願という大いなる力に生かされているのであるということですが、大事なことは、それが最初から弥陀の本願という「物語」として説かれるという点です。
 むかし法蔵菩薩が「一切衆生がわが浄土に往生して救われることがなければ、わたしも仏になるまい」という超世の誓願をたてられ、それが成就したことで阿弥陀仏になられた、だからわれらはもう弥陀の本願力に救われ、このままで生かされているのだ、という物語。この物語は、われらは自分の力で生きていると思っているが、それはただそうであるかの如く思い込んでいるだけであることに気づかせようとしています。われらは「わたし」がすべての起点であり、「わたし」あってのものだねだと思っていますが、それはひとつの物語であることを気づかせようとして説かれたのです。
 聖道門では「常一主宰のわたし(アートマン)」というのはひとつの約束事(物語)であるにすぎないことを言おうとして空の思想が説かれたのに対して、浄土門では同じことを言うのに本願の教えが説かれます。そして空の思想では「わたしはない(空である)」として「わたしという物語」を直截に否定するのに対して、本願の教えでは「われらは弥陀の本願に生かされている」ともう一つの物語を持ち出して「わたしという物語」に気づかせようとしているのです。物語に事実を対置するか、物語をもう一つの物語で包みこむかの違いと言えます。

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