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名号不思議の海水は [はじめての『高僧和讃』(その79)]

(22)名号不思議の海水は

 次の二首は本願の海について詠います。

 「名号不思議の海水は 逆謗(ぎゃくほう)の屍骸(しがい)もとどまらず 衆悪の万川(ばんせん)帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」(第41首)。
 「不思議なるかな海の水、どんな屍骸もとどめない。あらゆる川を受け入れて、功徳の水に同化する」。

 「尽十方無碍光の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれば 智恵のうしほに一味なり」(第42首)。
 「尽十方無碍光の、大慈大悲の海水に、煩悩の川はいりなば、智恵のうしおにひとつなり」。

 煩悩の氷が解けて菩提の水となると詠われてきましたが、今度はあらゆる煩悩の川が本願の海に入って菩提のうしおにひとつとなると詠われます。これまたしばしばつかわれるメタファですが、このメタファにはさまざまな意味が含まれています。まず川の水はどれほど濁っていても、海に入ると浄化されて澄んだ海水になるということ。二つ目に、海はどんな川も選別することなく受け入れるということ。そして三つ目に、川の水はそれぞれに違っていても、海に入るとひとつの味になるということ。
 川を「わたしのいのち」に、海を「ほとけのいのち」におき直しますと、まず、「わたしのいのち」がどれほど悪業に濁っていても、「ほとけのいのち」に帰入しますと、ただちに浄化されます。そして「ほとけのいのち」は、「わたしのいのち」がどんなに罪悪深重であろうと嫌うことなく受け入れてくれます。さらに「わたしのいのち」はそれぞれに異なっていて、どれひとつとして同じものはありませんが、「ほとけのいのち」に帰入しますと、みなひとつになります。
 あらゆる川がそれぞれの路を流れて、ついには海に帰入してひとつになるという鮮やかなイメージが浮かび上がります。

タグ:親鸞を読む
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