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身土不二とは [「親鸞とともに」その42]

(3)身土不二とは

身を土から切り離して生きるということは、わが身が生きるために土を利用しようとしているということに他なりません。そして身が土を利用するためには、与えられた土のなかで、益をもたらす土と、益をもたらさず、むしろ害となる土を分別しなければならず、益をもたらす土を選びとり、害をもたらす土を切り捨てることになります。たとえ益をもたらすとして選びとられた土も、そのような観点から選ばれているだけですから、状況が変わって益をもたらすことがないとなれば、容赦なく捨てられます。身が土を利用するという関係は所詮そのようなものでしかありません。

これは身と土が本質的に分離しているということです。たとえ結びついているように見えても、それはただ身が土を利用しているということであり、それだけのことにすぎません。これがわれらの身と土の関係ですが、では仏教で言う「身土不二」とはどういうことでしょう。それは身がそのままで土であるということで、仏のありようを表しています。仏においてはその身(仏身)とその土(仏土)は別ではなく、阿弥陀仏とはその浄土のことに他なりません。そして浄土とはここにあるこの世界とは別のどこかにあるのではありません。浄土とはこの世界そのものであるからこそ、阿弥陀仏は「微塵世界にみちみちたまへる」(『唯信鈔文意』)のです。阿弥陀仏とはこの世界そのものであると言うべきです。

『無量寿経』には「ここを去ること十万億刹(せつ)なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と説かれていますが、これを、ここから十万億刹(刹とは国の意味で、十万億の国々をすぎてということです)離れたところに、この娑婆とは別の世界(アナザーワールド)があり、そこを安楽世界とよぶと受けとるべきではありません。そうではなく、十万億刹も彼方からここに至るまでのすべてが安楽世界であると理解すべきで、だからこそ阿弥陀仏は「微塵世界にみちみちたまへ」るのです。その微塵世界そのものが阿弥陀仏であると受けとるべきです。


タグ:親鸞を読む
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