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9月22日(木) [矛盾について(その415)]

 「与えられたる生活がすなわち道場」とはどういうことでしょう。
 ぼくらは職場で働いたり、家事の仕事をする中で「欲を起こしたり、腹を立てたりして」、そのつど「あいすみません」と恥じ入ります。それが念仏者の修行だということです。「あいすみません」と思うこころが「南無阿弥陀仏」なのです。同時に、こんな自分でも生きていていいとは「なんとありがたい」と思う。そのこころが「南無阿弥陀仏」です。普段の生活の中で「あいすみません」と言い、「ありがとう」と言う。それが念仏者の修行だということです。
 しかし、どうして欲を起こしたり腹を立てたりしたときに「あいすみません」と恥じ入るのでしょう。欲を起こしたり腹を立てるのは人間として当たり前だと思えば、「あいすみません」と頭が下がることはありません。どうしてこんな自分でも生きていていいと思えて「ありがたい」と喜ぶことができるのでしょう。生きていていいのは当然じゃないでしょうか。なんでそれが「ありがたい」のか。
 これを解く鍵が「帰命」という二文字にあります。善導も言っていましたように、これはわれらが阿弥陀仏に「お助けください」と願うこころです。ところが親鸞は驚くべきことを言うのです。帰命とは「仰せに従い、そうしてお召しにかなうところのこころ」であると。親鸞は『教行信証』で、帰命の二文字についてその意味を細かく検討し、それは「お召しに従うことだ」と言うのです。
 改めて「命」を辞書で引いてみますと、「いのち」とは別に「仰せ、命令」という意味があることが分かります。命とは、もともとは「みことのり」の意で、王の命令を人民に伝達して従わしめることだったのです。ですから帰命とは「仰せに帰す」ことです。これは示唆するところが大きい。これまでは帰命とは単に願うことだとされてきましたが、ここにきて、それは仰せに従うこととされるのです。

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