SSブログ
「信巻を読む(2)」その75 ブログトップ

因果とは [「信巻を読む(2)」その75]

(5)因果とは

Aが因でBが果である」ということばは二通りに解釈できます。一つは「Aがあれば、その後かならずBがある」ということで、これが普通の解釈です。そしてこの解釈では「ABの条件」と言いかえることができます。もう一つは「Aがあるということは、取りも直さずBがあるということである」ということで、仏教の因果はこちらです。金子大栄氏の分かりやすい例をお借りしますと、「人に親切をすれば幸せになる」(「親切が因で、幸せが果」)と言うとき、前者の解釈では、「人に親切をしておくと、その後かならず幸せになる」という意味となります。ところが後者の解釈では、「人に親切をすることが、取りも直さず幸せである」ということ、人に親切をするときの喜びそのものが幸せであるという意味です。

たとえば道元は『正法眼蔵』において「修証一等」と言いますが、これは坐禅という修行と仏の悟りという証果は一等すなわちひとつであるということです。人はともすると坐禅をすることが因となり、のちに悟りという果を得ることができると考えるが、そうではなく、坐禅することが取りも直さず悟りを得ることであり、坐禅することとは別のどこかに悟りがあるわけではないというのです。これが仏教の因果で、「信心が因で往生が果である」というのも、信心をすることにより、そののち往生を得ることができるということではなく、信心をすることが、取りも直さず往生することだという意味です。これが第十八願成就文に「その名号を聞きて、信心歓喜せん…すなはち往生を得、不退転に住せん」と言われていることです。

このように考えてきますと、「信心が因となって往生を得る」ということばは、信心が往生の条件であるという意味ではないことが明らかになります。往生には何の条件もありません、いつでも、どこでも、だれでも往生できるのです。では信心とは何かと言いますと、そのことに「気づく」ことです。いつでも、どこでも、だれでも往生できるという本願に「気づく」、これが信心です。この「気づき」すなわち信心がありませんと、残念ながら往生はありません。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その75 ブログトップ