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「わたし」はあるかないか [『ふりむけば他力』(その67)]

(6)「わたし」はあるかないか

 デカルトは世界から自立している「わたし」の存在に気づき、そのような「わたし」の存在が世界を知ることの最終的な根拠となると考えました。釈迦もまたそのような「わたし」に気づきましたが、しかし釈迦の場合は、そのことがわれらの苦しみの大元になっていると考えました。デカルトにとって「わたし」はわれらの栄光の最終的根拠ですが、釈迦にとって「わたし」はわれらの悲惨の最終的根拠であるわけです。そしてデカルトにとって「わたし」が存在することは自明の理ですが、釈迦にとって「わたし」はありもしないものを、あたかもあるかのように思い込んでいるだけです。
 この鮮やかなコントラストはわれらにさらなる思索を促します、このコントラストは何を意味しているのだろうかと。一方は「わたし」は「ある」といい、一方は「ない」と言いますから、もう水と油で、両者にはいかなる接点もないように思われます。確かにデカルトの側からしますと、無我などということを説く仏教はもう箸にも棒にもかからないといわなければならないでしょう。デカルトに言わせれば、「わたしはない」と言う尻から、そう言っている「わたし」が顔を出しているのですから。しかし仏教の側からしますと、デカルトの「われあり」に対してもの申さねばならないことがあります。
 ここであらためて確認しておきたいのは、デカルトが「われあり」というときの「われ」は「考えるわれ」であるということです。たとえば「歩くわれ」は確実に存在するとは言えません。デカルト自身言っていますように、そのようなわれを夢みているだけかもしれないからです。しかし「考えるわれ」は確かに存在します。存在しないかもしれない、と思ったそのとき、そう思う「わたし」がそこにいます。これはどういうことかといいますと、われらは何かを「考える」とき、あるいは何かを「知ろうとする」とき、つまりは何かを「思う」とき、そこに「わたし」がいるということです。
 としますと「わたし」はいつもいるとは限らないわけで、何かを「思う」とき、そのときには必ずそこに「わたし」が寄り添っているということになります。そこからこんな可能性を想定することができないでしょうか、われらが何かを「思う」ときには、あたかもそこに「わたし」がいるかのように仮構しているだけなのかもしれないと。ほんとうはそんな「わたし」がいるわけではないにもかかわらず、何かを「思う」とき、そこに「わたし」がいるかのように思い込んでいるという可能性を否定することができないということです。仏教サイドからはデカルトの「われあり」に対してこんなふうにもの申すことができます。

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