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乃至一念 [『教行信証』「信巻」を読む(その28)]

(8)乃至一念


もう一度第十八願にもどりますと、「心を至して信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん」とあり、この「乃至十念」は名号を称えることを意味しますから、その成就文の「乃至一念」も(十念と一念の違いはあっても)、称名の意味であると考えるのは自然であり、これまでみなそう理解してきました。ところが親鸞はこの「乃至一念」は「行の一念」ではなく「信の一念」であって、すぐ前の「信心歓喜」とひとつであると考えるのです。親鸞がそのように考えた根拠としては『如来会』の成就文があります。そこに「無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せしめ」とあり、この「一念の浄信」ということばから、「乃至一念」の「一念」は「信の一念」であると了解したと思われます(この「信の一念」については後に主題となります)。


この「浄信」ということばのもとの梵語は「チッタ・プラサーダ」であり、「チッタ」は「心」、「プラサーダ」は「澄んだ」という意味で、「澄んだ心」ということです。信心とは「澄んだ心」であるというのは示唆するところが大きいと言わなければなりません。何かを信じるとは、ことばの普通のつかい方では、われらが何かに信を与えるということですが、本願を信じるという場合は、これまで濁っていた心があるときすーっと澄んで、本願のはたらきがわが身の上に生き生きと感じられるようになることを意味するということです。そのとき本願と信心はひとつになっていますが(これが「一心」です)、その不思議な瞬間を「一念」と言っているのです。


成就文の読みに戻りまして、親鸞流の二つ目が「乃至一念せん」につづく「至心に回向せしめたまへり」です。この読みもどこから見ても不自然と言わなければならず、これは「至心に回向して、かの国に生ぜんと願ぜば」と読むものでしょう。このすぐ前の文「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん」の主語は「十方の衆生」で、すぐ後の文「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得」の主語も「十方の衆生」です。ところがその間の文「至心に回向せしめたまへり」の主語は「阿弥陀仏」ですから、前後の文から浮き上がってしまいます。しかし親鸞としては文のつながりから見てどれほど不自然であろうとも、こう読むしかなかったということです。



タグ:親鸞を読む
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