SSブログ
「信巻を読む(2)」その41 ブログトップ

自力であり、同時に他力 [「信巻を読む(2)」その41]

(6)自力であり、同時に他力

業縁ということばが出てきましたが、これが鍵を握っています。これまでは「わが力により」善悪を分別し行動できると思っていましたが、あるときわが思いもわが行いも「業縁により」はからわれていることに気づくのです。これが「囚われの気づき」です。業縁(あるいは宿業)とは、「わがはからい」を超えたはたらき、すなわち他力のことです。これまではみな「わがはからい」で生きていると思い込んでいたのですが(そのように囚われていたのですが)、あるとき「わがはからい」を超えた他力に遇うのです。これが自力への囚われの気づきであり、同時に他力のはたらきの気づきですが、さてそのとき、どのような風光が広がるのでしょうか。

自力への囚われに気づき、他力のはたらきに気づくとはいえ、「わが力」により善悪を分別し行動することをやめるわけではありません。これまでと何も変わらず、「わがはからい」で生きなければなりません。しかし、いまやもう「わがはからい」に囚われてはいません(囚われに気づくことは、囚われから抜けることに他なりません)。すなわち「わがはからい」で生きながら、それがそっくりそのまま他力のはからいのなかにあることに気づいています。おさらいですが、「わがはからい」で生きる(自力で生きる)のは、本質的に「これから」のことであり「時間のなか」のことです。しかし他力のはからいで生きるのは「もうすでに」のことであり「時間を超えて」のことです。

このように、われらは否応なく時間のなかで「これから」のことを思いはからっているのですが、それがそっくりそのまま「もうすでに」他力によりはからわれているのです。われらは紛れもなく「時間のなかに」生きながら、同時に「時間を超えて」生かされているということです。自力と他力の関係は、「自力か、さもなければ他力」ではありません、「自力であり、同時に他力」という関係です。孫悟空は思うがまま自在に生きていますが、それはそっくりそのままお釈迦さまの掌の上のことです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その41 ブログトップ