SSブログ
正信偈と現代(その106) ブログトップ

末那識 [正信偈と現代(その106)]

(5)末那識

 いつも「自分が、自分が」と思っているということは、「実体としてのわれにとらわれている」ということです。唯識ではそれを説明するものとして「末那識(まなしき)」という深層の意識を上げます。この深層意識は、眠っているときにも働いていますし、どんなに酔っぱらっても、あるいはどれほど認知症が進んでも、これだけはなくなりません。ときとして、ここがどこであり、いまがいつであるかは忘れることがありますが、自分が自分であることは絶対に忘れません。自分が何者であるかは分からなくなることがあっても(「わたしはキリストである」とか「オレは天皇だ」と言うことはあり得ます)、自分が自分であることは天地がひっくり返っても確かです(「オレはオマエだ」と言うことはありえません)。
 そしてこの末那識が我執(唯識では我癡・我見・我慢・我愛の四つをあげます)を生みだすのであり、末那識をのりこえることで涅槃の境地に至ることができるとされます。この説き方は、釈迦がすべての苦しみは煩悩から生じ、したがって煩悩を滅することにより菩提に至ると教えてくれたことを、論理的により明らかにしていると言えます。ただ、このように「論理のことば」を駆使して説明されたからといって、真理の気づきに少しでも近づいたことになるかどうか。気づいたような気にはなっても、ほんとうに気づいたのかどうか心もとないのではないでしょうか。
 いや、そもそも末那識というものに自分から気づけるものではありません。「われにとらわれている」ことに「われ」がみずから気づくのは土台無理です。「われ」とは「われへのとらわれ」に他ならないと唯識は言うのですが、そしてそれはまったく正しいと思いますが、ただそれをどういう根拠で言うのかということが疑問として残るのです。どうしてそう言えるかという問いに対して、それは「われ」というものを深く掘り下げることによってだ、では答えになっていないと言わざるをえません。「われ」を掘り下げるのは他ならぬ「われ」でしかありませんが、いったいそれはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その106) ブログトップ