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大悲の願船に乗じて、光明の広海にうかびぬれば [『教行信証』精読2(その86)]

(17)大悲の願船に乗じて、光明の広海にうかびぬれば

 ここで親鸞は経典の「乃至」とは善導のいう「下至」と同じで、「下一声から、上一形(一生)をつくすまで」の意味であるとして、「一念が多念か」という無益な争いに終止符を打ちます。宇宙からやってくるかすかな信号(たより)を傍受した瞬間(時剋の極促)が信の一念のときであり、歓喜踊躍して乃至一念するのが行の一念ですが(「下一声」です)、それは信心のはじまりに他ならず、それから正定聚として念仏の生活がつづくことになるのです(「上尽一形」です)。
 そして善導の言う「専心」とは「一心」であり、「専念」とは「一行」であるとして、「信の一念」、「行の一念」のもうひとつの意味を明らかにしてくれます。信の一念には「時剋の極促」の意味とは別に、「二心のないこと」という意味があり、それが専心あるいは一心ですが、行の一念にも「偏数の一念」すなわち一声という意味とは別に、「二行のないこと」という意味があり、それが専念あるいは専修念仏です。信にも行にも「もはら」という相があるということです。
 かくして信の一念・行の一念の喜びがもたらす光景を謳いあげます。「大悲の願船に乗じて、光明の広海にうかびぬれば」とは、弥陀の光明名号が届いていることに気づいた「時剋の極促」を表しています。これは「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」という『教行信証』の冒頭を思い起こさせます。人生という苦海にうかぶ大船が弥陀の名号であり、苦海を覆う無明の闇を破ってくれるのが弥陀の光明です。
 信の一念・行の一念によって、むこうにある大悲の願船に乗るのではありません。信の一念・行の一念のとき、もうすでに大悲の願船の上にいることに気づくのです。信の一念・行の一念によって、無明の闇を破るのではありません。信の一念・行の一念のとき、もうすでに無明の闇が破れていることに気づくのです。信の一念・行の一念によって、すみやかに無量光明土にいたるのではありません。信の一念・行の一念のとき、もうすでに無量光明土にいることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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