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スタップ細胞 [『ふりむけば他力』(その21)]

(5)スタップ細胞

 「あることを知る」とは「わたし」があることをこちらからつかみ取ることですが、誰かが「わたしはつかみ取った」と言っても、別の「わたし」から疑義が申し立てられる可能性があります、「どうしてあなたはつかみ取ったと言えるのか」と。「わたし」であることにおいてはみな同じ資格ですから、ある人はつかみ取ることができて、別の人がつかみ取ることができないのはおかしいからです。したがって、誰かが「あることを知った」と言明することは、誰でもそれを知ることができると言っているのでなければなりません。かくして「知る」ことには客観性が具わることになります。客観性が具わらなければ「知る」ことにはならないのです。
 思い起こされるのがスタップ細胞を巡る騒動です。もうだいぶ前になりましたが、理化学研究所の若き女性科学者がどんな細胞にもなることができる万能のスタップ細胞を作りだすことができたと発表して世間を驚かせました。ところがまもなくその論文にさまざまな疑義が出され、すったもんだの末に結局その論文は撤回されることになったのですが、外野席にいるぼくの関心事は、スタップ細胞がほんとうにあるのかどうかということよりも、科学的に正しいというのはどういうことかでした。「スタップ細胞はあります」(という記者会見の場での本人の声は今も耳に残っています)と主張するためには何が必要であるかということです。
 「私はスタップ細胞を作りだしました(つかみ取りました)」と主張することは、「誰でも一定の手続きを踏めばスタップ細胞を作りだすことができます」と言うことに他ならず、科学として大切なのは、その手続きをはっきりと示すことです。そして誰でもその手続きにしたがえば実際にスタップ細胞を作りだすことができるかどうか、ここにその主張の正しさはかかっています。で、彼女の示した手順によってはスタップ細胞を作り出すことができませんでしたので、結局彼女の主張は退けられる結果となったわけですが、ここからはっきりしますのは、「あることを知る」とは「誰でもそれを知ることができる」ということであり、それを証明してはじめて客観的に正しいと評価されるのです。「知る」ことにはこの証明が不可欠であるということです。

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