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極悪深重の衆生 [はじめての『高僧和讃』(その196)]

(24)極悪深重の衆生

 源信讃の最後の和讃です。

 「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」(第97首)。
 「極悪衆生のためとては、ほかに方便なにもない。ひとえに弥陀を称してぞ、浄土にうまるとのべたまう」。

 極悪深重のわれらは本願念仏に助けられて生きるしかないということですが、この「極悪深重」について思いを廻らせたい。
 あるときカルチャーセンターで「悪人正機」の話をしていまして、親鸞の言う悪人とは自分を悪人と自覚した人のことであると述べましたところ、一段落したところで、ある方から、「ぼくは自分がそれほど悪人であるとは思えないのですが」という反応がありました。それよりもっと以前にも、「どうして親鸞という人は人間の暗い面ばかりを持ち出すのでしょう。人間にはもっと明るい面もあるでしょうに」という感想を漏らされた方もおられました。われらに煩悩がある以上、おしなべてみんな悪人ではないか、という具合に話が進んでいくことに抵抗を感じられる方がたくさんおられるということです。これは考えなければならないと反省させられたことでした。
 われら凡夫は、欲を起こし、腹を立て、ねたみごころをもつのは確かだが、それと悪人であることとはやはり違うのではないか、という思い。「悪人正機」に疑問を感じられる方たちのなかにはそれがあるのではないでしょうか。欲を起こすことと、欲を起こして人のものを奪うこととは違う。腹を立てることと、腹を立てて人に殴りかかることとはやはり分けなければならない。みんな多かれ少なかれ煩悩をもつが、そのことと実際に悪事を働くことの間には大きな懸隔があるという感覚です。
 イエスのことばに「姦淫するなかれと云えることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうちに姦淫したるなり」(「マタイ伝」5章)というのがありますが、色情を懐くことと姦淫することとの間には大きな溝があるのではないか、という思いが起こります。倫理とか道徳というのは、人間に色情があることを前提として、そのままにふるまわないよう意志の力で抑えるところに価値をおくのではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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