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本師龍樹菩薩は [親鸞の和讃に親しむ(その42)]

(2)本師龍樹菩薩は 

本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき 歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける(第3首)

龍樹菩薩は大乗の、至極の法をときあかし、これぞ歓喜の境地とて、ひとに念仏すすめたり

先の和讃では無自性空を説く龍樹が詠われましたが、この和讃で本願念仏を説く龍樹が詠われます。「大乗無上の法」とは本願念仏の教えのことです。そして「歓喜地」には左訓がつけられ、「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」と丁寧に述べられています。「得べきもの」とは仏となることであり、「得てんず」を現代語訳しますと「かならず得るであろう」となります。正定聚不退とは「かならず仏となるべき身となる」(『浄土和讃』第117首の左訓)ことですが、それとピッタリ重なり、歓喜地に至ることは天に踊り地に躍るほどのよろこびであるということです。

龍樹『十住論』によれば、この歓喜地に至るのに「勤行精進の難行道」と「信方便の易行道」の二つがあるとされます。そして龍樹は易行道について、「もし人疾く不退転地(すなわち歓喜地)に至らんと欲はば、恭敬(くぎょう)の心をもつて執持して名号を称すべし」と説くのでした。さてしかし本願を信じ念仏を申すことで「かならず仏となるべき身となる」ことができ、「得べきものを得てんずとおもひてよろこぶ」ことができるというのはどういうことでしょう。

本願を信ずるとは「ほとけのいのち」に遇うことに他なりません。これまではただひたすら「わたしのいのち」を生きるだけでしたが、あるとき「ほとけのいのち」に遇うことができ、そこから「待っているよ、いつでも帰っておいで」と呼びかけられていることに気づくのです。そしてそのとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、同時に「ほとけのいのち」であることに思い至ります。これが「かならず仏となるべき身となる」ということです。

これが歓喜地でなくて何でしょう、これまでは「わたしのいのち」の自由を求めて、逆にそれにがんじがらめに束縛されていたのですが、いまや「わたしのいのち」のまま「ほとけのいのち」として自在に生きることができるようになったのですから。


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