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正定聚として生きるとは還相を生きること [「『証巻』を読む」その36]

(5)正定聚として生きるとは還相を生きること

このように往生とは臨終に弥陀の来迎を受けて浄土という別世界へ生まれかわることであるとする伝統的な往生観が覆されますと、それに伴って、往相は今生、還相は来生という通念もおのずから変わらざるをえません。往生とは本願を信受して正定聚となることであるとしますと、それは「いま」はじまり、今生のいのちが終わるときまでずっとつづくということです。往生は本願信受のときにはじまり、いのち終わるときまでつづく旅であると言えます。そしてその旅は正定聚としての旅です。

正定聚とは何かは第1回のテーマでしたが、あらためてそのポイントをおさえておきますと、「わたしのいのち」を「わたしのいのち」として生きながら、「ほとけのいのち」に生かされていると気づかされた人の謂いです。親鸞はそれをこんなふうに言います、「真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり」(『尊号真像銘文』)と。このように正定聚とは「ほとけのいのち」に摂取不捨されて生きる人で、往生とはそのような正定聚として生きることです(往生の「生」は「生まれる」ですが、「生きる」とも読みます)。

見てきましたように、往相は往相として完結することなく、還相となるべく定められているのですから、往生の旅人としての正定聚は、取りも直さず還相の人であることになります。正定聚としては往相でありながら、そのままで還相の人として利他教化のはたらきをするということです。そして往相がそのまま還相ですから、往相が今生なら還相も今生とならざるをえません。

さて親鸞はこの還相回向の願として第二十二願を上げますが、この願の名前として「必至補処の願」と「一生補処の願」の二つを上げた後、「また還相回向の願と名づくべし」と述べています。この願は伝統的に「必至補処の願」とか「一生補処の願」と呼ばれてきたが、しかしこの願の本質は「還相回向」にあると言おうとしているのでしょう。補処(一生補処)といいますのは、この一生を終えれば、仏処を補うという意味で、次の生でかならず仏となることができる地位をさします。ですから第十一願の正定聚あるいは等正覚と同じです。としますと、第二十二願を「必至補処の願」や「一生補処の願」と見ますと、第十一願と同じ内容の願であることになります。そこから親鸞はこの願を「還相回向の願」と名づけるべきだと述べているのです。


タグ:親鸞を読む
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