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たまたまつながっている [「親鸞とともに」その89]

(3)たまたまつながっている

それに対して「煩悩があることに縁り苦がある」という「縁起」の関係には前後がありません。煩悩が先で、苦が後ということではなく、煩悩のあるところ、そこに苦がある、ということです。したがってこの関係は可逆的で、煩悩があればそこに苦があると同時に、苦があればそこに煩悩があります。そしてもう一つ大事なこととして、この関係は「たまたま」そのようになっているということがあります。煩悩があるところに「たまたま」苦があり、苦があるところに「たまたま」煩悩があるということです。つまり煩悩と苦は、どういうわけか「たまたま」つながっているのです。

この「たまたまのつながり」ということに縁起の本質があります。「ご縁がある」というのは、「たまたまつながっている」ということで、たとえばぼくと妻は「たまたまつながっています」。必ずつながっていなければならないわけではないのに(つながっていなくても世界に何の支障もないのに)、しかし現につながっており、しかもそのつながりはぼくにとっても、妻にとってもその根本をなしています。つまり、ぼくという存在は、妻との「たまたまのつながり」によってあり、また妻の存在もまた、ぼくとの「たまたまのつながり」によってあります。その「たまたまのつながり」とは別にぼくという存在、妻という存在があるのではないということです。もしそうでないとしましたら、ぼくと妻の夫婦関係はすでに壊れています。

今度は親と子の関係で考えましょう。「親がいることに縁り子がいる」というのは、この親がいるところこの子がいて、この子がいるところこの親がいるということで、この親とこの子は「たまたまつながっています」。そしてこの親の存在は、この子との「たまたまのつながり」によってあり、またこの子の存在も、この親との「たまたまのつながり」によってあります。つまりこの親もこの子もその「たまたまのつながり」にその本質があり、それから離れてどこかにこの親、この子がいるのではありません。このつながりから離れてどこかにそれぞれの存在があるのでしたら、それはもはやほんとうの親子ということはできません。


タグ:親鸞を読む
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