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現世にしがみつこうとする自分 [「『おふみ』を読む」その40]

(15)現世にしがみつこうとする自分

ここで指摘しておきたいのは、親鸞にはこの「明日もしらぬいのち」という感覚が希薄だということです。それが出てもいいと思われる和讃においても、世の無常を詠うものはほとんどありません。吉本隆明は親鸞の和讃を「詩的ではない」と言っていましたが、それはそこに無常観がないということでしょう。先にも言いましたように、無常観と厭世観とは一卵性双生児です。現世を厭い、来世を願う。これが浄土教の通奏低音ですが、親鸞はこの感覚から抜け出しています。

親鸞には無常観の代わりに己の罪深さに対する悲しみがあふれています。「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(『教行信証』「信巻」)。こんなことばを自分の著作の中に残す僧侶がいたでしょうか。もっと印象的なのは『歎異抄』第9章です。「また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」。

現世の愛欲や名利にこだわり、病気になれば死んでしまうのではないかと慌てふためく己をじっとみつめ、それを「はづべしいたむべし」と悲しむ、これが親鸞です。

現世を厭うどころか、現世にしがみつこうとしている自分。そこには深い悲しみがありますが、しかし、よくよく聞いてみますと、その奥の方から喜びの声が聞こえてこないでしょうか。「浄土へいそぎまいりたきこころ」がなく、現世にしがみつこうとするのは煩悩のなせるわざですが、「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしく」思われ、喜びが込み上げてくるのです。

現世にしがみついている自分に悲しみのこころをもちながら、それが本願を喜ぶこころに転じる、これが親鸞です。ここには来世の救いに向けるまなざしは見られません。

(第3回 完)


タグ:親鸞を読む
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