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塵点久遠劫よりもひさしき [『浄土和讃』を読む(その105)]

(7)塵点久遠劫よりもひさしき

 生きとし生けるものすべてにかけられている大いなる願いがあると感じる―これをはっきりとした形にしたものが「弥陀の本願」だとしますと、そこにはもはや固有名詞はありません。釈迦は「弥陀の本願」を分かりやすいことばにしてくれましたが、「弥陀の本願」そのものは久遠の昔からあったもので、釈迦はそれをただリレーしただけです。さらに弥陀という名も「大いなる願い」に便宜上つけられただけでしょう。それをうたうのが次の和讃です。

 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」(第55首)。
 「弥陀成仏のときからは、十劫たつといわれるが、実は久遠のむかしより、おわしまします仏なり」。

 この和讃から「正宗分」に入りますが、そのはじめに弥陀は久遠の仏であることがうたわれます。讃阿弥陀仏偈和讃の冒頭に「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」とありましたが、ここでは「塵点久遠劫よりもひさしき」とうたわれるのです。塵点久遠劫といいますのは、果てしなく遠い過去ということです。十劫そのものが果てしない昔を意味しますが、それでも「あるとき」に他なりません。あるとき本願が成就し、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたのです。しかしあるとき本願がはじまったとしますと、それは久遠ではありません。
 ここには「永遠」と「はじめ」にまつわるアポリアがあります。
 カントは『純粋理性批判』において、この問題を論じました。「世界には時間的にはじめがある」という命題と「世界には時間的にはじめがない(永遠である)」という命題は、どちらも誤りであるというのです。前者に対しては、あらゆる出来事にははじめがあるが、しかしその出来事がはじまる前にも何らかの状態があるはずだから、世界そのものにははじめはないと否定し、後者に対しては、はじめがないということは、ある時点に至るまでに無窮の時間が流れているということだが、われらには無窮の時間の継起を思い浮かべることができないと否定します。

タグ:親鸞を読む
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