SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その6) ブログトップ

無明の闇を破するゆゑ [親鸞の和讃に親しむ(その6)]

6.無明の闇を破するゆゑ

無明の闇を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏・三乗衆(声聞、縁覚、菩薩) ともに嘆誉したまへり(第11首)

無明の闇を破るゆえ、知恵のひかりのほとけとぞ。諸仏も弟子もみなともに、ほめて喜びあらわさん

「無明の闇を破する」という言い回しは、しばしばお目にかかります。真っ先に頭に浮ぶのは『教行信証』冒頭の「無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり」ですが、この言い回しのおおもとは曇鸞『論註』の「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す。よく衆生の一切の志願を満てたまふ」にあります(この段は古来「破闇満願」とよばれ大切にされてきました)。

まず、われらは無明の闇の中にあるということを、あらためて考えてみましょう。無明とは縁起の法という根本真理に暗いことであり、あらゆる煩悩の元となるものです。要するに頑なな囚われのなかにあるということですが、それは「わたし」への囚われ、すなわち我執に他なりません。何の根拠もなく「わたし」があらゆる事がらの第一起点として存在すると信じて疑わないこと、これが無明です。無明がなぜあらゆる煩悩(そして苦しみ)の元かと言いますと、われらはいつでもどこでもこの第一起点としての「わたし」を立てようとしてもがき、それが阻害されたりしますと嘆き悲しみ、また激しく怒るからです。

われらは「わたし」という自由と独立の砦を守ろうとして、そのことに深く束縛されています。自由と独立を守ろうとして、逆にそのことにがんじがらめに束縛されてしまうという、この何とも言えない倒錯こそあらゆる苦しみの根源です。

さてでは無礙の光明は無明の闇を「破す」とはどういうことでしょう。この光明に照らされるともう無明の闇がすっきり消え、「わたし」への囚われから解放されるということでしょうか。いえ、そうではありません。むしろ無明の闇が無明の闇であることに気づかされるのです、「わたし」に囚われていることが明るみに引き出されるのです。「ああ、これまでこの囚われによって苦しんできたのか」という気づきが与えられるのです。そう気づいたからといって、囚われから解放されるわけではなく、依然として「わたし」に囚われたままですが、でもその気づきはわれらの肩の荷を一気に軽くしてくれます。変な言い回しですが、安心して囚われることができるようになるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その6) ブログトップ