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本文1 [「『証巻』を読む」その12]

第2回 煩悩を断ぜずして涅槃分を得

(1)  本文1

経典からの引用の後、曇鸞『論註』から五つの文が引用されます。もちろん、証としての現生正定聚のありようを明らかにするためです。まずは一つ目の文。

『浄土論』(『論註』です。親鸞にとって『浄土論』と『論註』はひとつです)にいはく、「荘厳妙声(みょうしょう)功徳成就(国土荘厳十七種の第十一荘厳)とは、偈に〈梵声(ぼんしょう)()深遠(じんのn) 微妙聞(みみょうもん)十方(じゅっほう)(梵声の悟らしむること深遠にして微妙なり。十方に聞ゆ)〉といへるがゆゑに。これいかんが不思議なるや。経にのたまはく、〈もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念(こくねん)して(一心に信じて)生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る〉と。これはこれ、国土の名字、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきやと。

天親の『浄土論』に「梵声(如来の清らかな声)の悟らしむること深遠にして微妙なり。十方に聞ゆ」という偈があるのを曇鸞が『論註』で注釈しているのです。曇鸞はこの偈文の背景には第十八願成就文があるのを感じ、それを「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」と自分流に言い替えています(因みに第十八願成就文は「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に住せん」)。

ただこれは親鸞独特の読み方で、普通に読みますと、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」となります。どうしてこれを「剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」と無理な読みをするのかについて、そうすることで現生正定聚を読みこもうとしているという解釈があるようです。しかしそれはいかにも強引な感じがします。それより何より、その解釈では「往生は来生」ということが前提とされています。すでに述べてきましたように、信心のそのときに往生がはじまるとしますと、そんなふうに解釈する必要はありません。「剋念して生ぜんと願ずるもの」はすなわち「往生するもの」であり、そしてまた「正定聚に入る」ものです。ではどうして親鸞はこの読みをしたのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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