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次いで弥勒のごとし [「信巻を読む(2)」その73]

(3)次いで弥勒のごとし

『龍舒浄土門』の所説を確かめるために、次に『大経』と『如来会』の文、さらに用欽の文が引かれます。

『大経』にのたまはく、「仏、弥勒につげたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かのくにに往生せん。一々の菩薩は、すでに曾(むかし)無数の諸仏を供養せりき。次いで弥勒のごとし〉」と。

またのたまはく(『如来会』)、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他(なゆた)百千の仏の所(みもと)にして、もろもろの善根を種(う)ゑて不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。抄出

律宗の用欽師のいはく、「至れること、『華厳』の極唱(ごくしょう、至極の法)、『法華』の妙談(妙法)にしかんや。かつはいまだ普授(授は授記のことで、将来悟りを得ることを約束すること。普授は一切衆生に普く授記すること)あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記(この上ない仏の悟りを約束すること)を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。以上

『大経』及び『如来会』の文は、正宗分の最後のところで弥勒菩薩が「世尊、この世界において、いくばくの不退の菩薩ありてか、かの仏国に生ぜん」と尋ねるのに対する釈迦の答えです。この答えにつづいて、さらに他方の仏土からも無数の不退の菩薩たちが無量寿仏の浄土に往生することが述べられます。そのものたちはみな、あなた弥勒と同じであると言うのです。先の『龍舒浄土文』では「便ち弥勒に同じ(便(べん)(どう)弥勒)」と言われ、ここでは「次いで弥勒のごとし(次如(しにょ)弥勒)」と言われているのは他力信心の人のことであり、そのものたちはみな弥勒と同じように今生において不退の位につくことができると言っているのです

そしてそれは次の用欽の文に「普授」とあり、「衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得る」とあることに関係してきます。


タグ:親鸞を読む
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