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無礙光如来の名号と [親鸞の和讃に親しむ(その58)]

(8)無礙光如来の名号と

無礙光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜(じょうや)の闇(あん)を破し 衆生の志願を満てたまふ(第47首)

無碍光仏の名号と、その光明はひとつにて、無明長夜の闇を破し、衆生の願い満たしたり

如来の名号(こえ)と光明(ひかり)は、無明の闇を破り、われらの願いを満たしてくださると詠われます。この和讃は『論註』の一節、「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す。よく衆生の一切の志願を満てたまふ」にもとづいて詠われています。如来の不思議なこえとひかりがわれらのこころに届くと、そのときわれらの願いが満たされると言うのですが、この願いとはわれら各自の勝手な願いのことではないでしょう。健康で長生きしたい、とか、もっと豊かになりたい、などといった願いではなく、それらの雑多な願いの底の底に潜む、われらのほんとうの願いが満たされるということに違いありません。そんな願いがこころの底の底にあるなどと思いもせずに日々の生活に追われて暮らしているのですが、あるときふと「ああ、これがわれらのほんとうの願いではないか」と気づかされるのです。それは「生きとし生けるものみながともに救われる(往生する)」という願いです。

しかし弥陀の名号と光明に遇うことで、ただそれだけで、「衆生の志願が満てたまふ」のはどういうことでしょう。

それは、名号と光明に遇うということは、「みなともに救われる」ことがわれらのこころの底の底にあるほんとうの願いであることにはじめて気づかされることであり、そしてまたその願いは実に如来の願いであることに気づかされることに他ならないからです。第18願の「若不生者、不取正覚(一切の衆生が往生できなければ、わたしの救いもありません)」に如来の願いが凝縮されています。生きとし生けるものみなが救われてはじめてわたしの救いもある、というのが如来の願いです。としますと、われらのほんとうの願いである「みなともに救われたい」は、それに気づいたそのとき、もうすでに満足されているではありませんか。われらが「みなともに救われたい」と願うより前に、すでに如来にそのように願われているのです。そのことに気づくだけで、もう「みなともに救われている」のです。


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