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われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり [「信巻を読む(2)」その119]

(10)われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり

ここでもうひとつ注目すべきなのは、阿闍世が「われいま仏を見たてまつる。ここをもつて仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ」と述べていることです。阿闍世ははじめて「ほとけのいのち」に遇うことができ、「無根の信」が生まれたのですが、それはそれだけで終わるのではなく、「衆生の煩悩悪心を破壊」するという還相のはたらきをするということです。つまり往相(自分の救い)は往相だけで終わるのではなく、かならず還相(衆生の救い)につながるということです。阿闍世は「われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず」とまで言いますが、この思いはどこから生まれてくるのでしょう。

その答えが「耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ」ということばにあります。天身とか長命とか常身と言われているのは「ほとけのいのち」のことで、いまは阿闍世という名札をつけた「わたしのいのち」を生きていますが、その「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるということです。「無根の信」をたまわることでそのことに気づかせてもらえたのです。「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」を生きているのです、いや、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きていると言うべきでしょう。

としますと「ほとけの願い」と「わたしの願い」は根っ子のところでひとつであると言わなければなりません。「わたしの願い」は人それぞれにさまざまでしょうが、そのもっとも奥深いところに「ほとけの願い」が息づいています。それは「いのち、みな生きらるべし」という願いであり、第十八願でいいますと「もし(あらゆる衆生が)生れざれば(往生できなければ)、正覚を取らじ」という願いです。ここから「われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず」という驚くべきことばが出てくるのです。


タグ:親鸞を読む
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