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往生と正定聚 [「『正信偈』ふたたび」その67]

(7)往生と正定聚

まず近門について天親は「阿弥陀仏を礼拝し、かの国に生ぜんとなすをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得」と言います。阿弥陀仏を礼拝し往生を願えば、もうそれで安楽国に生まれることができるというのです。これは驚くべきことばのように思えますが、しかし第十八願の成就文には「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得」とあり、それにもとづいて言われていることが分かります。曇鸞も近門について「初めに浄土に至るは、これ近の相なり」と述べ、つづけて「いはく、大乗正定聚に入りて、阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上のさとり)に近づくなり」と言っています。これを見ますと、浄土に往生することと正定聚に入ることは一つであると捉えられていることが分かります。これも第十八願の成就文に「すなはち往生を得」のあとすぐ「不退転に住せん」と言われていることにもとづいています。「不退転に住す」ことと「正定聚に入る」ことは同義です。

これで見ますと近門とは往生することであり、そしてそれは正定聚に入ることであるのが分かりますが、では親鸞はどう考えていたのでしょう。近門についての直接の発言はここに「功徳大宝海に帰入すれば」とあるだけですが、往生と正定聚との関係については第十八願成就文を注釈して次のように述べています、「〈願生彼国(かの国に生ぜんと願ずれば)〉といふは、〈願生〉はよろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。〈彼国〉はかのくにといふ。安楽国ををしへたまへるなり。〈即得往生(すなはち往生を得)〉といふは、〈即〉はすはなちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また〈即〉はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。〈得〉はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを〈往生を得〉とはのたまへるなり」(『一念多念文意』)と。

引用が長くなりましたが、親鸞もまた正定聚の位につくことと往生することはひとつであり、それは真実信心を得たときであると考えていたことが分かります。すなわち信心=正定聚=往生ということです。


タグ:親鸞を読む
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