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阿闍世に仏性はあるか? [「信巻を読む(2)」その102]

(5)阿闍世に仏性はあるか?

釈迦は迦葉に「わたしは涅槃に入るところであったが、阿闍世のために涅槃に入ることはない」と語り、そのことばの意味を明かしていきます。しかし経に「如来の密語不可思議なり」とありますように、その意味を取るのにひと苦労します。

前半はよく分かります。「阿闍世のために」とは、まだ仏性を見ることがなく、菩提心を起こすことのない衆生のためにという意味だということです。ところが「乃至」の後になりますと俄然分かりにくくなります。「また《為》とは名づけて仏性とす。《阿闍》は名づけて不生とす。《世》は怨に名づく」をどう理解すればいいか。すぐつづく「仏性を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち煩悩の怨生ず」からしますと、阿闍世は仏性を生ずることがないから、煩悩の怨を起こして父王を殺害したという意味だと了解できます。ところがそのすぐ後に「仏性を見るをもつてのゆゑに、すなはち大般涅槃に安住することを得。これを不生と名づく。このゆゑに名づけて阿闍世とす」とあり、さらには「《阿闍》は不生に名づく。不生は涅槃と名づく」とくるものですから、「あれ?」とならざるを得ません。

いったい阿闍世は仏性を見ざる衆生なのか、それとも仏性を見て涅槃に安住しているというのか、どちらなのだろうと戸惑うのです。どう考えればいいのでしょう。

これは曽我量深氏から教えられたことですが、仏性の問題を巡って明治時代に東京帝国大学の姉崎正治氏と東洋大学の境野黄洋氏が誌上で論争したことがあったそうです。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」と説かれているが、浄土真宗ではこれをどう捉えたらいいかという問題です。姉崎氏は「浄土真宗といえども大乗仏教の『涅槃経』の教えにもとづいており、どんな衆生にも仏性があるからこそ本願を信じることができる」と主張し、対する境野氏は「『涅槃経』は自力聖道門の教えであり、浄土真宗では仏性のない煩悩具足の凡夫のために弥陀の本願があると説かれる」と主張したと言います。仏性とは、平たく言いますと、仏となる可能性、仏となる種ということですが、これが一切の衆生にもとからそなわっているのかどうか、姉崎氏はそなわっていると言い、境野氏はそなわっていないと言いますが、さてどう考えたらいいか。


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阿闍世王の為に涅槃に入らず [「信巻を読む(2)」その101]

(4)阿闍世王の為に涅槃に入らず

阿闍世を廻るドラマの第二幕に移ります。阿闍世が救いを求めて自分のところに来るのを知った釈迦が弟子の迦葉(かしょう)に語ることばです。

またのたまはく、「〈善男子(迦葉よ)、わがいふところのごとし、阿闍世王の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義(深い意味)、なんじいまだ解くことあたはず。なにをもつてのゆゑに。われ《為》といふは一切凡夫、《阿闍世王》とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり。また《為》とはすなはちこれ一切有為の衆生(迷える凡夫のこと)なり。われつひに無為の衆生(迷いをはなれたもの)のためにして世に住せず。なにをもつてのゆゑに。それ無為は衆生にあらざるなり。《阿闍世》はすなはちこれ煩悩等を具足せるものなり。また《為》とはすなはちこれ仏性を見ざる衆生なり。もし仏性を見んものには、われつひにために久しく世に住せず。なにをもつてのゆゑに。仏性を見るものは衆生にあらざるなり。《阿闍世》とはすなはちこれ一切いまだ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざるものなり。乃至 また《為》とは名づけて仏性とす。《阿闍》は名づけて不生とす。《世》は怨に名づく。仏性を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち煩悩の怨(あだ)生ず。煩悩の怨生ずるがゆゑに、仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるをもつてのゆゑにすなはち仏性を見る。仏性を見るをもつてのゆゑに、すなはち大般涅槃に安住することを得。これを不生と名づく。このゆゑに名づけて阿闍世とす。善男子、《阿闍》は不生に名づく。不生は涅槃と名づく。《世》は世法に名づく。《為》とは不汚(ふわ)に名づく(「ために」とは汚されないということです)。世の八法(利、衰、毀、誉、称、譏〈そしる〉、苦、楽)をもつて汚さざるところなるがゆゑに、無量無辺阿僧祇劫に涅槃に入らず。このゆゑにわれ《阿闍世王の為に無量億劫に涅槃に入らず》とのたまへり。善男子、如来の密語不可思議なり。仏法衆僧また不可思議なり。菩薩魔訶薩また不可思議なり。『大般涅槃経』また不可思議なり〉と。


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慚は人に羞づ、愧は天に羞づ [「信巻を読む(2)」その100]

(3)慚は人に羞づ、愧は天に羞づ

「慚はうちにみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ」ということばが印象的です。あらためて「あんなことをしたから、こんなひどい結果になったのだ」と後悔するのと、「どうしてあんなことをしてしまったのか」と己を恥じるのを比較しましょう。周りから「悔やんでも仕方がないから、前を向いて生きましょう」と慰められたとき、前者でしたら、「そうだな、過去のことにこだわっても仕方がない」と思うかもしれませんが、後者では、どれほど「悔やむのをやめなさい」と言われてもそれで慚愧が弱まるとは思えません。

これは何を意味するかといいますと、どちらもわれらの内に起こりますが、前者はその源が自分自身にあるのに対して、後者は外部に源があるということです。

後者の慚愧の源が外にあるということは、自分が自分を恥じるには違いないのですが、そのときどこかから「お前というヤツは」という「こえ」が聞こえているということです。あるいは自分の偽らざる姿が不思議な「ひかり」のなかに照らし出されているということです。その「こえ」や「ひかり」の前に、われらは否応なく慚愧せざるを得なくなるのです。ですからどれほど「後悔するなかれ」と言われても、いや、そう言われれば言われるほど後悔せざるをえないのです。

さてどこかからやってくる「こえ」や「ひかり」の前に、否応なく懺悔せざるをえないという経験は、自分を超えた何か大いなる力に遇うという経験です。ある方から質問されたことがあります、その「こえ」は自分の中からやってくるとは考えられないかと。確かに「良心のこえ」というものがあり、それが自分を責めるということはありますが、その場合、多かれ少なかれ「底上げ」がしてあります、「自分には自分を断罪できる程度には良心がある」と。断罪する善き自分が断罪される悪しき自分から差し引かれているのです。問題は阿闍世の慚愧ですが、そこには「上げ底」はあるでしょうか。あるとは思えません。阿闍世はやはり外からやってくる容赦のない「こえ」に遇っているのです。

さて、これは第二幕で明らかにされることですが、阿闍世の逆悪を赦すことができるのは、それを容赦なく断罪する「こえ」だけです。容赦なく断罪するからこそ、その前に慚愧するものを赦すことができるのです。


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慙愧 [「信巻を読む(2)」その99]

(2)慚愧

耆婆のことばが終わった後、不思議な声が聞こえてきます。

〈大王、一逆を作れば、すなはちつぶさにかのくごときの一罪を受く。もし二逆罪を造らば、すなはち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王いまさだめて知んぬ、王の悪業かならずまぬかるることを得じ。やや、願はくは大王、すみやかに仏のみもとに往(もう)づべし。仏世尊を除きて余は、よくたすくることなけん。われいまなんぢをあはれむがゆゑに、あひ勧めて導くなり〉と。その時に、大王、この語を聞きをはりて、心に怖懼(ふく、おそれ)を懐けり。身を挙げて戦慄す。五体掉動(じょうどう)して芭蕉樹のごとし。仰ぎて答へていはく、〈天にこれたれとかせん、色像を現ぜずしてただこの声のみあることは〉と。〈大王、われはこれなんぢが父頻婆娑羅(びんばしゃら)なり。なんぢいままさに耆婆の所説に随ふべし。邪見六臣の言に随ふことなかれ〉と。時に聞きをはりて悶絶躄地(びゃくじ、腰がぬけて地に崩れる)す。身の瘡、増劇(ぞうぎゃく)して臭穢(しゅうえ)なること、前よりもまされり。もつて冷薬をして塗り、瘡を治療すといへども、瘡あつかはし(蒸れる)。毒熱ただ増せども損ずることなし」と。以上略出

一 大臣、名づけて月称といふ          富蘭那と名づく

二 蔵徳                    末伽梨句舎梨子と名づく

三 一の臣あり、名づけて実徳といふ       闍耶毘羅胝子と名づく

四 一の臣あり、悉知義と名づく         阿耆多翅舎欽婆羅と名づく

五 大臣、名づけて吉徳といふ          迦羅鳩駄迦旃延

六 無所畏                   尼乾陀若提子と名づく

ここまでで第一幕が閉じられます。六人の大臣が次々と登場し、己の罪の重さにおののく阿闍世を慰め、「後悔なさいますな、後悔することに何の意味もありません」と説くのに対して、最後に登場する耆婆は阿闍世が「心に重悔を生じて慚愧を懐」いていることを「善いかな善いかな」と褒め、慚愧こそわれらに救いを与えると説くのです。前に後悔に二種類あると言いました、ある行いにより悪い結果を招いたと後悔することと、その行い自体を後悔することです。後者の後悔が慚愧ですが、それがわれらに救いをもたらすとはどういうことかを考えておきたいと思います。


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耆婆(ぎば)という大医 [「信巻を読む(2)」その98]

第9回 なんぢ独りいかんぞ罪を得んや

(1)耆婆(ぎば)という大医

六人の大臣の後に耆婆という医者が登場します。

その時に、大医あり、名づけて耆婆(ぎば、阿闍世の異母兄)といふ。王の所に往至してまうしてまうさく、〈大王、いづくんぞ眠ることを得んやいなや〉と。王、偈をもつて答へていはまく、乃至 〈耆婆、われいま病重し。正法の王において悪逆害を興す。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病(ぜんぎょうせんびょう、巧みな看病)の治することあたはざるところなり。なにをもつてのゆゑに、わが父法王、法のごとく国を治む、実に辜咎(つみとが)なし。横に逆害を加す、魚の陸(くが)に処するがごとし(陸に上げられた魚のようです)。乃至 われ昔かつて智者の説きていひしことを聞きき。《身口意業もし清浄ならずは、まさに知るべし、この人かならず地獄に堕せん》と。われまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることを得べきや。いまわれまた無上の大医なし、法薬を演説せんに(薬となる教えを説いて)、わが病苦を除きてんや〉と。耆婆答へていはく、〈善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じて慚愧(ざんぎ)を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生をたすく。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるがゆゑにすなはちよく父母・師長を恭敬(くぎょう)す。慚愧あるがゆゑに父母・兄弟・姉妹あること(父母、兄弟姉妹の関係が保たれること)を説く。善きかな大王、つぶさに慚愧あり。乃至 王ののたまふところのごとし、《よく治するものなけん》と。大王まさに知るべし。迦毘羅城(かびらじょう、カピラヴァストゥ、釈迦の故郷)に浄飯王(じょうぼんのう)の子、姓は瞿曇(くどん、ガウタマ)氏、悉達多(しっだった、シッダールタ)となづく(釈迦のこと)。師なくして自然に覚悟して阿耨多羅三藐三菩提を得たまへり。乃至 これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむこと、もしあたはずといはば、このことはりあることなけん(王の病を治せない道理がありません)。乃至 大王、如来に弟(従弟)提婆達多あり。衆僧を破壊(はえ)し(教団の和を乱し)、仏身より血を出し、蓮華比丘尼(提婆達多のあやまりを指摘して殺される)を害す。三逆罪を作れり。如来、ために種々の法要を説きたまふに、その重罪をしてすなはち微薄なることを得しめたまふ。このゆゑに如来を大良医とす。六師にはあらざるなり〉と。乃至 


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要素説 [「信巻を読む(2)」その97]

(15)要素説

吉徳という大臣の言っていることは全体としてよく分からないと言わざるをえませんが、「もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害するところなけん」というところはよく理解できます。もし「われ」が常住であるならば(これが有我です)殺害はありえず、またもし「われ」に実体がないとすれば(これが無我です)これまた殺害はありえないというのはその通りでしょう。ただ、そこから吉徳はそもそも殺害自体が存在しないと結論するのですが、そうはなりません。「われ」は実体としてあるわけではありませんが、われらの世の中は「われ」を仮説(けせつ)することで成り立っていますから、その意味で「われ」は存在するのであり、したがって殺害もあります。

さて、パクダ・カッチャーヤナという人は七要素説で知られています。アジタの上げる地・水・火・風の四大に、苦と楽と霊魂を加え(その点で純粋な唯物論ではありませんが)、人間はこれらの七要素の集合体であるとし、それぞれの要素は互いに独立していると考えます。そしてそこから驚くべきことを言い出すのです、利剣が頭を断つとしても、それは利剣が七要素の隙間を通過するということにすぎない、と。かくして殺害という悪は成り立たないことになります。仏教でも無我の説明として人間を五蘊すなわち色(物質)・受(感受)・想(表象)・行(意思)・識(認識)という五つの要素が和合したものにすぎないと言いますが、上に述べましたように、実体としての「われ」は存在しないとしても、五蘊が仮に和合したものとしての「われ」は認めますから、それを殺害することは大きな罪となります。

六人目のニガンタ・ナータプッタは名を上げられるだけですが、この人、本名をヴァルダマーナといい、ジャイナ教というインドに今日までつづく宗教の祖です。仏教とよく似たところがありますが、徹底した禁欲主義を取り、とりわけ不殺生の禁戒を厳守することで知られています。

(第8回 完)


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パクダ・カッチャーヤナと二ガンタ・ナ―タプッタ [「信巻を読む(2)」その96]

(14)パクダ・カッチャーヤナとニガンタ・ナータプッタ

五人目と六人目の大臣です。

また大臣あり、名づけて吉徳といふ。乃至 〈地獄といふは、なんの義ありとかせん。臣まさにこれを説くべし。地は地(ち)に名づく、獄は破に名づく。地獄を破せん、罪報あることなけん。これを地獄と名づく。また地は人に名づく、獄は天に名づく。その父を害するをもつてのゆゑに人天に到らん。この義をもつてのゆゑに、婆蘇仙人(ばそせんにん)唱へていはく、《羊を殺して人天の楽を得》と。これを地獄と名づく。また地は命(みょう)に名づく、獄は長に名づく。殺生をもつてのゆゑに寿命の長きを得。ゆゑに地獄と名づく。大王このゆゑにまさに知るべし、実に地獄なけん。大王、麦をうゑて麦を得、稲をうゑて稲を得るがごとし。地獄を殺しては、還りて地獄を得ん。人を殺害しては、還りて人を得べし。大王いままさに臣の所説を聴くに、実に殺害なかるべし。もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害するところなけん。なにをもつてのゆゑに。もし有我ならばつねに変易なし、常住をもつてのゆゑに殺害すべからず。不破不壊、不繋不縛、不瞋不喜はなほ虚空のごとし。いかんぞまさに殺害の罪あるべき。もし無我ならば諸法無常なり。無常をもつてのゆゑに念々に壊滅(えめつ)す。念々に滅するがゆゑに殺者・死者みな念々に滅す。もし念々に滅せば、たれかまさに罪あるべきや。大王、火、木を焼くに、火すなはち罪なきがごとし。斧、樹をきるに、斧また罪なきがごとし。鎌、草を刈るに、鎌、実に罪なきがごとし。刀、人を殺すに、刀、実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人いかんぞ罪あらんや。毒、人を殺すに、毒、実に人にあらず、毒薬、罪人にあらざるがごとし。いかんぞ罪あらんや。一切万物みなまたかくのごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらんや。やや、願はくは大王、愁苦を生ずることなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦せば、愁へつひに増長せん。人眠りをこのめば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。いま大師あり、迦羅鳩駄迦旃延(からくだかせんえん、パクダ・カッチャーヤナ)と名づく〉と。乃至 

またひとりの臣あり、無所畏(むしょい)となづく。〈いま大師あり、尼乾陀若提子(にけんだにゃだいし、ニガンタ・ナータプッタ)と名づく〉と。乃至 


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唯物論 [「信巻を読む(2)」その95]

(13)唯物論

アジタは唯物論で知られています。世界は地・水・火・風の四大とそれらが存在する場としての虚空とからなり、それらの要素が常に離合集散しているとし、人間もまたその四つの要素の集合体に他ならないと考えます。ですから人間が死ぬと、それを構成していたそれぞれの要素が、地はもとの地の集合に、水はもとの水の集合にというように帰るだけだと言います。サンジャヤが「来世は存在するのか」とか「輪廻転生はあるのか」、あるいは「因果応報は存在するのか」といった形而上学的な問いに対して判断中止(エポケー)したのに対して、アジタははっきり否定の立場を打ち出します、来世も輪廻も因果も存在しないと。かくしていかなる責任も罪も否定されることになります。

アジタの唯物論では地水火風の各要素は何のつながりもなく、ただ偶然の離合集散を繰り返すだけですが、縁起の思想はそれと真逆で、あらゆるものは他のものとのつながりにおいてあり、それ自体としては何ものでもありません。唯物論ではそれぞれの要素が基本で、それが偶然つながったり離れたりして神羅万象が生じているとするのですが、縁起ではつながり(縁)が基本であり、あらゆるものは他のものと縦横無尽につながりあっていますが、このつながりは時空を超えており、したがって可逆的です。「これあるに縁りてかれあり」であると同時に「かれあるに縁りてこれあり」です。われらはそのような縦横無尽のつながりのなかにあり、そのつながりを引き受けて生きるしかありません。

ところが普通の因果概念では、因と果は時空のなかにありますから、前なる因が後なる果を生み、それは不可逆です。ここからいわゆる因果応報すなわち善因善果・悪因悪果という考えが出てくるのですが、これは時空を超えた縁起の思想と似て非なるものです。仏教は決して因果を否定するものではなく、因果を撥無するものは仏教ではないと言われるほどですから、責任と罪を否定するわけではありませんが、しかし因果応報の思想はきっぱりと否定すると言わなければなりません。


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アジタ・ケーサカンパリン [「信巻を読む(2)」その94]

(12)アジタ・ケーサカンパリン

四人目の大臣の登場です。

またひとりの臣あり、悉知義(しっちぎ)と名づく。すなはち王の所に至りて、かくのごときの言をなさく。乃至 王すなはち答へていはまく、〈われいま身心あに痛みなきことを得んや。乃至 先王辜(つみ)なきに、横に逆害を興ず。われまたむかし智者の説きていひしを聞きき。《もし父を害することあれば、まさに無量阿僧祇劫(あそうぎこう、きわめて長い時間)にして大苦悩を受くべし》と。われいま久しからずしてかならず地獄に堕せん。また良医のわが罪を救療(くりょう)することなけん〉と。大臣すなはちもうさく、〈やや、願はくは大王、愁苦を放捨せよ。王聞かずや、むかし王ありき、なづけて羅摩といひき。その父を害しをはりて王位をつぐことを得たりき。跋提(ばつだい)大王、毘楼真王(びるしんおう)、那睺沙王(なごしゃおう)、迦帝迦王、毘舎佉王(びしゃきゃおう)、月光明王、日光明王、愛王、持多人王(じたにんおう)、かくのごときらの王、みなその父を害して王位をつぐことを得たりき。しかるにひとりとして王の地獄に入るものなし。いま現在に毘瑠璃王(びるりおう)、優陀耶王(うだやおう)、悪性王(あくしょうおう)、鼠王(そおう)、蓮華王、かくのごときらの王、みなその父を害せりき。ことごとくひとりとして王の愁悩を生ずるものなし。地獄・餓鬼・天中といふといへども、たれか見るものあるや。大王、ただ二つの有あり。一つには人道、二つには畜生なり。この二つありといへども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずは、なにものか善悪あらん。やや、願はくは大王、愁怖を懐くことなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りをこのめば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪し酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。乃至 阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたししゃきんばら、アジタ・ケーサカンパリン)〉。乃至 

悉知義も王の苦悩には意味がないとして、その理由を三つあげています。一つは、古今の多くの王が父を害して王位を継いだが、誰ひとりそのことを後悔していないこと。二つは、王は地獄に堕ちることを恐れているが、地獄も餓鬼も天も誰も見たものはいないということ、三つは、五悪趣のなかで人間と畜生はたしかにあるが、善いことをすれば人間に生まれ、悪いことをすれば畜生に生まれるという因果などどこにもありはしないということ、この三つです。そして六師外道の一人、アジタ・ケーサカンパリンを紹介します。


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懐疑論 [「信巻を読む(2)」その93]

(11)懐疑論

実徳の説の方が運命論の本質をより鮮やかに見せてくれます。阿闍世が父を殺したのは、父・頻婆娑羅自身にそのような宿命があったからだという論法は、どこかで読んだ次の話を思い出させます。あるムスリムのウエイターが不注意で皿を落として割ってしまったとき、こう言ったというのです、この皿はアッラーにより割れる運命に定められていたのであって、自分には何の責任もない、と。ここに運命論が責任逃れの論法であることがはっきりとあらわれています。それに対して宿業論は己の宿業を己自身として引き受ける思想です。

さて『涅槃経』はここでサンジャヤ・ペーラッティプッタを持ち出すのですが、そのつながりがよく分かりません。サンジャヤは六師外道の一人で懐疑論者として知られています(その弟子にサーリプッタ・舎利弗と大モッガラーナ・大目犍連がいたのですが、この二人は後にサンジャヤを離れて釈迦のもとに走り、それを知ったサンジャヤは「血を吐いた」と伝えられています)。懐疑論といいますのは、「来世はあるか」とか「霊魂は不死か」といった形而上学的な問いに対して「不可知」の立場に立つことですが、いまの場合、われらがそのなかに置かれている運命のありようは「不可知」であるということからここで取り上げられたのでしょうか。

宿業のありようも「不可知」です。「ちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなし」(『歎異抄』第13章)ですが、しかしそれがどのような宿業であるかは知る由もありません。しばしば「善因善果、悪因悪果」と言われますが、これはある特定の因により特定の果がおこるということです(それは普通の原因・結果の概念と同じです)。しかし宿業の思想(ひいては縁起の思想)では、何ごとも他のあらゆる事柄と縦横無尽につながりあっていると考えますから、その中から特定の因と果を取り出すことは不可能です。われらはその縦横無尽のつながり(縁)を引き受けて生きていくしかありません。


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