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ひとり常途にことなる [『教行信証』精読2(その34)]

(2)ひとり常途にことなる

 さて元照がこの文で言わんとしているのは、浄土の教えが「ひとり常途にことなる」ことです。どこが異なるかと言いますと、賢愚に関係なく、緇素に関係なく、修行に関係なく、造罪に関係なく、ただただ信心があるかどうかにだけ関係するという点です。
 なるほどこれでは「めにみ、みみにききて、ことに疑謗を生じ」るのもやむを得ないと思えてきます。元照自身、律宗の僧として過ごしてきた過去を振り返ってみれば、浄土の教えを「めにみ、みみにききて、ことに疑謗を」抱いてきたのではないでしょうか。どれほど罪を造ろうが、ただ弥陀の本願を信じるだけで往生でき、成仏できるなどという教えはいかにも「常途にことなる」と思えたに違いありません。ところが病を機に、一転して浄土の教えに帰することになったのです。
 さてしかし、「ただ決定の信心」が「すなはちこれ往生の因種」であるとすることのどこに「常途にことなる」ところがあるのでしょう。
 信心が往生の因と言われますと、そうか、われらが信心することが原因となって、往生という結果がもたらされるのか、と思います。そしてそこから、往生するためにはしっかりした信心が必要なのだと考えるものでしょう。さあしかし、この「しっかりした信心」が曲者で、これでは「しっかり修行することにより悟りに至れる」とするのと同じ構図になります。浄土の教えが「常途にことなる」のは、決定の信心のありようが、並の信心とは根本的に異なるということです。
 しかし、どのように?
 弥陀の本願を信じるとは、われらは「わたしのいのち」を生きているが、実はそれがすべて「ほとけのいのち」のなかではからわれていると信じることです。前につかった譬えをもう一度持ち出しますと、ごく普通の街中で普通に日常生活をしていると思っていたら、それが巨大なクルーズ船のなかのことであったと気づくようなものです。自力で生きているには違いないが、それがそっくりそのまま他力のなかのことであると気づく、これが本願を信じるということです。大事なことは、この「信じる」ということ、あるいは「気づく」ということもまた他力のなかにあるという点です。

タグ:親鸞を読む
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