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賜りたる信心 [『教行信証』「信巻」を読む(その50)]

(9)賜りたる信心


 乃至のあと、「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」とありますのは、もうお察しのように、もとの漢文は「不善三業必須真実心中捨」で、「不善の三業はかならずすべからく真実心のうちに捨てるべし」と読むのが普通であるところを、親鸞は上のごとく読んでいます。またつづく「善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて」も、同じように、もとの「起善三業者必須真実心中作」は「善の三業を起こさば、かならずすべからく真実心のうちになすべし」と読むのが普通です。このように親鸞は終始一貫して、われらに真実心はなく、真実心は如来から賜るしかないと読んでいるのです。


浄土真宗のキャッチコピーとも言うべきものが「賜りたる信心」ですが、ここであらためて「信心を賜る」とはどういうことかについて思いを廻らせておきたいと思います。そもそも「心を賜る」という言い方そのものに何か強い抵抗がはたらかないでしょうか。われらにとって「心」というものは、われらが生きることすべての原点のようなもので、そこにわれらの自由と独立がかかっていると感じます。もしその「心」が他から操られるようなことになれば、もはやわれらは自由で独立した人格ではないように思われます。「心を賜る」という言い回しのなかに何かそのような気配が感じられ、そこに警戒心がはたらくのではないでしょうか。


「心」とはものを思うところであり、何であれ「心」がものを思うことで何かをなすことができます。右手を上げようと思うことで右手が上がり、左手を上げようと思いますから左手を上げることができます。ここから「心」は何かをなすことの起点であり、それが自由ということだと考えられます。確かに「心」が何をなそうと思わなければ何ごともなすことができません。どんなに嫌なことであれ、嫌だけれどもしなければ仕方がないと思うからするのであり、その意味で「心」は行いの起点となっています。さてしかし話はこれで終わりではありません。





タグ:親鸞を読む
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