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大慈悲はこれ仏道の正因なる [「信巻を読む(2)」その26]

(2)大慈悲はこれ仏道の正因なる

「この心すなはちこれ大慈悲心なり」とした後、「この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに」と述べられます。この文のこころは、大慈悲心であるような信心がわれらにおこるのはなぜかと言えば、そのもとが「無量光明慧」としての如来であるからということでしょう。そもそもわれらに「度衆生心」すなわち「衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる」ような慈悲の心などあるはずがなく、それは如来の無量の慈悲と智慧である本願の力によるということです。つまり、われらの信心のもとは如来の本願であるがゆえに、言いかえれば、如来の本願そのものがわれらの信心になっているがゆえに、その信心が大慈悲心であることができるのです。

最後の一文「願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに」は『論註』を下敷きにしています。『論註』では「諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し」となっていますが、それを「願海平等なるがゆゑに」と言いかえているのです(その他はまったく同じです)。『論註』の文は法蔵菩薩が四十八願をおこされたことについて述べています。すなわち法蔵菩薩はすべての諸仏如来と同じように発心するがゆえに、その智慧(道)も等しく、慈悲も等しいのであって、それが成仏の正因となるのだと言っているのです。それを親鸞はわれらの信心に置き換えて、われらの信心はみな同じ本願海から生じるから、賜る智慧も慈悲も等しく、それが成仏の正因となるのであると言うのです。

大慈悲心である信心が成仏の正因であるのは、その信心のもとが如来の大慈悲心である本願であるからということです。如来の大慈悲心(本願)がわれらの大慈悲心(信心)となっているのだから、われらの信心が成仏の正因となるのです。「信ずれば仏になる」と言えるのはどうしてか。それはわれらの信心が本願に他ならないからです。われらが願っているには違いありませんが、それより前に如来が願ってくださっているから、われらは仏になることができるのです。


タグ:親鸞を読む
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