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親鸞の手紙を読む(その82) ブログトップ

第4段本文 [親鸞の手紙を読む(その82)]

(11)第4段本文

 この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』と申すふみには、「かやうのひとは仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」と候ふめり。また至誠心のなかには、「かやうの悪をこのまんには、つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」とこそ説かれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。
 悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひ、ちかづくことは候へ。それも、わがはからひにはあらず。弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひも候はんずれ。当時は、この身どものやうにては、いかが候ふべかるらんとおぼえ候ふ。よくよく案ぜさせたまふべく候ふ。
 往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。このふみをもつて、かしま・なめかた・南の庄、いづかたもこれにこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

 (現代語訳) そちらにおられる方々についても少々悪いうわさが流れているようです。師を謗ったり、善知識を軽んじ、同行も侮ったりしあっておられる由聞こえてきますのは浅ましいことです。そのような人は謗法の人で、五逆の人です。慣れ親しむべきではありません。『浄土論』には、そのような人は仏法を信じる心がないから、こんな心が起こるのだと書いてあります。また『観経疏』に至誠心を説く中で、このような悪を好む人からは謹んで遠ざかり、近づくべきではないと説かれています。善知識や同行には親しみ近づくようにと説かれています。
 悪を好む人に近づくということは、浄土へ往かせていただいたのち衆生利益のために帰ってきてから、そのような罪人にも親しみ近づくことはありましょう。それも自らのはからいによるのではなく、弥陀の誓いによるお助けがあってこそ、思うままの振る舞いもできるというものです。今のわれわれとしましては、どう振る舞うべきでしょうか。よくよくお考えいただきたいと思います。
 金剛のように堅い信心が起こるのも仏のおはからいによるのですから、そのような金剛心を持たれた人は、よもや師を謗ったり、善知識を侮ったりするようなことはないと思います。この手紙を、鹿嶋、行方、南の庄の、念仏にこころざしのある方々に、同じ心で読み聞かせていただきますように。謹言。

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