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像末法滅おなじく悲引す [「『正信偈』ふたたび」その86]

(7)像末法滅おなじく悲引す

第二句の「像末法滅おなじく悲引す」の主語は本願念仏の教えでしょう。この教えは像法においても末法においても、そしてそのあとの法滅のときにおいても変わらず人々を救ってくれるということです。ここには正法がありませんが、字数の関係で略されたと見るべきで、どの時代においても同じように悲引してくださるということです。先に「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」と言われていましたが、浄土の教えは末法の世になってはじめて現われたわけではなく(末法の世のための特殊な教えではなく)、どの時代にも人々を救ってきたということになります。末法の時代には聖道の教えは竜宮に隠れるから、その結果としてただ浄土の門だけが通入できるようになるということです。

親鸞は「行巻」において「一乗海」という善導のことばについて注釈をしていますが、そこにこうあります、「〈一乗〉は大乗なり。大乗は仏乗なり。…大乗は二乗(声聞乗と縁覚乗)・三乗(それに菩薩乗を加えたもの)あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり」と。これを平たく言い換えますと「仏教とは本願念仏の教えである」となります。仏教には八万四千の法門があるといわれますが、そのすべては詰まるところ本願念仏の教えに収斂するということです。時と機に応じてさまざまな説き方がされてきましたが、その真理はただ一つ、誓願一仏乗にあるという趣旨です。

そのことは正法・像法の時代にははっきりしませんでしたが、末法の時代に入りますと、小乗仏教や大乗聖道門の教えの真理は誓願一仏乗であることが否応なく明らかになってきたということです。小乗や聖道門は外を覆っている殻であり、その内には誓願一仏乗がちゃんとあったのです。これまでは殻の下に隠れていた本願他力という仏教の精髄が末法の時代のなかで輝き出すようになったということです。そのことがはっきりするようになるには自力聖道門と他力浄土門という対立軸が打ち出される必要があり、それには末法の時代を待つしかなかったのです。


タグ:親鸞を読む
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