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2013年9月13日(金) [はじめての『教行信証』(その47)]

 念仏と選挙のコールを一緒にするのはどうかと言われるかもしれませんが、名前の主をたたえるという点では変わりありません。「なむあみだぶつ」は阿弥陀仏を、そして阿弥陀仏の本願をたたえているのです。諸仏が弥陀の本願をたたえ、その声が衆生に届きますと、衆生に喜びが伝播し、そして「なむあみだぶつ」が伝播していく。こうして「なむあみだぶつ」の声が世界に満ち溢れることになります。
 諸仏の称名は取りも直さず我らの聞名であり、そして我らの聞名はそのまま我らの称名となり、それはまた他の衆生の聞名に他ならず、その聞名は彼らの称名につながっていきます。かくして「なむあみだぶつ」は次々とリレーされていく。これが浄土の行であるということを行巻は明らかにしようとしているのです。
 「なむあみだぶつ」と称えることは阿弥陀仏の本願をたたえることだと述べてきましたが、行巻は実際にどのように展開していくのかを見ていきましょう。先ほど読みましたように、行巻の冒頭で、浄土往生の行は阿弥陀仏の名を称えることであり、そのことは第十七願から出てくると述べた後、経典からの引用が続きます。そして結論としてこう述べられます。
 「ですから、ただ名を称えるだけで、衆生を苦しめる一切の煩悩が破られ、衆生が心から願うことが満足されるのです。称名は往生のための最も優れた正しい業(行い)であり、正業とは念仏に他なりません。念仏とは南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏は取りも直さず信心です。このように理解すべきです。」

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