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因果応報 [『ふりむけば他力』(その57)]

(8)因果応報

 次に、宿業の思想と因果応報との関係を明らかにしなければなりません。これもしばしば同一視され、そこからさまざまな問題が生まれてきます。因果応報は「善因善果、悪因悪果」とも言われ、善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果が待っているというものです。この感覚は確かに「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」と重なるように見えますが、さて両者は同じでしょうか。
 因果応報では、ある特定の因とある特定の果が一本の線でつながっていると思念されています。しかし宿業とは広く過去の業が現在とつながっているということであり、しかもそれぞれの過去の業は他の無数の人やものともつながりあっていますから、そのもつれあいから一本の糸を取り出してくることはできません。いま自分がおかれている状況は過去からの縦横無尽の縁によってつくりだされてきたということであって、いまの状況が善と思いなされるのに応じて、それには宿善があるとみなされ、逆に、いまの状況が悪と思いなされるのに応じて、それには悪業があるとみなされるのであり、過去にある特定の善い行いをしたから、いま善い果報をえることができ、ある特定の悪いことをした報いで、いま悪い結果を招いているというのではありません。
 因果応報に勧善懲悪の意図があることは明白です。善いことには善い結果が、悪いことには悪い結果が待っているから、善いことをし、悪いことはしないようにと言っているのです。
 これは、後で詳しく検討することになりますが、自然現象についての原因結果の概念と同じです。この概念も、ある特定の原因が特定の結果をもたらすということから、あることを得ようと思えば、その原因となることをしなければならないとするもので、そこにははっきりした目的意識があります。ここから了解できますのは、因果応報も原因結果も目が前を向いていて、「これから」どのようにすればいいかを考えようとしているということです。もちろん「これまで」のことにも注意を向けますが、それは「これから」に生かすためです。一方、宿業はどうかと言いますと、いまの自分がいかに深く「これまで」の宿業に根差しているかに思いを致しています。自分の力で生きていると思っていたのが、宿業に生かされていることに気づかされているのです。

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