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至心・発願・欲生と [親鸞の和讃に親しむ(その20)]

10.至心・発願・欲生と

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し 衆善の仮門をひらきてぞ 現其人前(げんごにんぜん、その人の前に現われる)と願じける(第61首)

至心・発願・欲生と、十方衆生に勧めつつ、方便の門ひらいては、迎えにゆくと誓いたり

これは第19の願、修諸功徳の願を詠います。「十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願してわが国に生ぜんと欲(おも)はん。寿終(じゅじゅう)の時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」というものですが、親鸞はこの願を方便の願と捉えます。そのことはこの和讃では「十方衆生を〈方便〉し」、「衆善の〈仮門〉をひらきてぞ」というところにあらわれています。先の第18願が浄土へ至る真実の門であるのに対して、この第19願は方便仮門であるということです。それを象徴的に示すのが「至心・信楽・欲生」と「至心・発願・欲生」のコントラストで、「信楽の門」と「発願の門」の違いです。さてしかし両者はどう違うか。

普通の門は自分の前にあり、「さあ、これからこの門を入ろう」と思って入りますが、不思議な門があり、これはもう入ってしまってから「ああ、すでに入っていた」と気づきます。ふり向いてはじめて門があることに思い至るのですが、この不思議な門が信楽の門です。一方、発願の門はごく普通の門で、「菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願してわが国に生ぜんと欲」って、この門をくぐります。これは「入るぞ」と発願して入るのですが、それで終わりではありません、それ以後もつねに発願しつづける必要があります。神社に鳥居がズラッと続いていることがありますが、発願の門もつねに自分の前にあり、それを入りつづけなければなりません。

かくして「現其人前と願」ずることになります。これは「寿終の時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現」ずということで、臨終において如来が菩薩たちとともに迎えに来てくださることを願うという意味です。今生においては、どこまでも発願の門を入りつづけ、臨終を迎えてようやく往生を果たすということになるのですが、一方、真実信心の人の場合は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(『親鸞聖人消息集』第1通)です。

(第2回 完)


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